説   教      詩篇2867  ルカ福音書51416

            「市井の主イエス」 ルカ福音書講解 (31)

            2020・08・09(説教20321868)

 

 先ほどお読みした旧約聖書・詩篇286節以下を、もういちど口語でお読みしましょう。「(6)主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。(7)主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる」。この古代イスラエルの詩人の信仰による祈りの言葉はそのまま、主イエスの御手によってらい病を癒して戴いた人の信仰告白でした。私たちはその出来事について先週ご一緒に御言葉を聴いたことでした。

 

 しかしその出来事には続きの部分があるのです。つまり、この癒されたらい病患者にはなお人生の続きがあるのです。それは私たちの人生と同じではないでしょうか。私たちは人生の旅路の中で、ときに信仰的に一時的に燃え上がるような経験をすることがあります。そういう経験のある人もない人も同じように主に祝福されていると私は思いますが、ともかく私たちは一時的に信仰的に燃え上がる経験をすることがある。そして、その経験で人生が終わるのではなくて、私たちはその先の道も歩んでゆかなくてはならないわけです。

 

 ゲーテは叙事詩ファウストの中で「時間よ止まれ」とファウスト博士に叫ばせましたけれども、どんなに感動的な経験をしたとしても、私たちの人生はそれで終わりではなく、むしろ大切なのは、そこから更に続く人生の歩みのほうなのではないでしょうか。例えて言うなら、高い山の頂上を極めた人も、そこから降りて下界に戻らなければならないのに似ています。その下界のことを昔は「市井」と呼びました。元々は井戸の周囲に人々が集まる様子を示しています。主イエスによって癒して戴いたらい病患者も市井の人です。私たちも市井に生きています。そして最も大切なことは、主イエス・キリストは「市井の主」でありたもうという事実です。

 

 今朝のルカ伝514節以下を、改めて読んでみましょう。「(14)イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。(15)しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。(16)しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」。

 

 主イエスはこのらい病を癒された人に対して、旧約聖書・レビ記に記された律法のおきてを行うようにとお命じになります。なぜなら、律法もまた本来は神の言葉だからです。さらに言うなら、旧約聖書の律法は主イエスによって成就された救いの御業を示すものだからです。ですから主が彼に対して「行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになったのは、彼の身に起こったことが単なる肉体の癒しではなく、神からの「救い」であることを示すためでした。だから主イエスは彼に対して「(このことを)誰にも話さないように」とお命じになったのです。

 

 そこで、この人は、主イエスとのこの2つの約束を、どうやらしっかりと守ったように思われます。まず、彼は癒された自分の身体を「祭司に見せる」ことをしました。つまり彼は、律法の掟に記された通りのことをして、自分の身に起こったことが「救い」であることを言い表しました。そして次の約束、すなわち「(このことを)誰にも話さないように」という約束にも彼は素直に聴き従ったようです。少なくとも今朝の聖書の御言葉からは、私たちはこの人が主イエスとの約束に忠実であったことを読み取れるのです。

 

 しかしながら、市井の人々はそれでは黙っていないわけです。それこそ誰からともなく、この人がらい病を癒して戴いた、大変な奇跡が行われた、という噂が口伝えに広まっていったわけです。その結果、どういうことが起こったかが、続く15節以下に記されています。「(15)しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。(16)しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」。

 

 ここで注目したいのは15節に「主イエスの評判」という言葉が出てくることです。「評判」というのは当然ながら、人間の側が決めることです。イニシアティヴが民衆の側にあることです。どういうことかと申しますと、主イエスがなさったらい病人の「救い」の出来事が、市井の人々には「奇跡的な癒しの出来事」として理解されたということです。その結果主イエスに対する「評判」が生まれ、その「評判」がたちまち人から人へと口伝えに広まっていったのです。

 

 主イエスは市井の人であられます。主は市井をこよなく愛したまい、市井の人々、すなわちあるがままの私たちの救いのために、ご自分の全てを与えて下さったかたです。しかし、その主イエスは同時に、永遠なる神の御子キリストであられます。言い替えるならこういうことです。主イエスは市井の主であられる。しかし市井は主イエスの主ではないし、そうはなりえないのです。同じ意味において、主イエスは私たちの唯一永遠の主であられる。しかし私たちは主イエスの主ではありえないのです。

 

 この本末転倒が市井の人々の中に現れたとき、つまり、市井の人々が主イエスを祭り上げて、15節にあるように「おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた」とき、主イエスは市井を離れて16節にあるように「寂しい所に退いて祈」る道をお選びになるのです。それはどういう道かと言いますと、ゴルゴタに通じる十字架の道です。つまり、主はご自身をただ「十字架の主」としてのみ市井の人々に現わしたもうのです。それはなぜでしょうか?

 

 それは、市井にある全ての人々を救うためです。私たちの罪と死に市井の人として連帯して下さった主イエスは、単なる連帯の主ではありません。主は連帯と同時に「寂しい所に退いて祈」りたもう永遠の神の御子キリストとして、私たち全ての者を罪と死の支配から贖い、救いと生命を与えて下さる「救い主」なのです。主イエス・キリストは市井を救うため、すなわち私たち全ての者を救い、御国に入れて下さるために、まさに市井にありて十字架への道を歩んで下さる救い主なのです。いま私たちはこの主に親しくまみえ、主に贖われた僕たちとして、新しい一週間を心を高く上げて信仰の歩みを続けて参りたいと思います。祈りましょう。