説   教       箴言1814  ルカ福音書51213

            「主イエスの御手」 ルカ福音書講解 (30)

            2020・08・02(説教20311867)

 

 「(12)イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。(13)イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった」。これが今朝、私たちに全ての者に与えられている福音の御言葉です。

 

ガリラヤ湖畔で弟子たちをお招きになった主イエスは、その弟子たちと共にただちに伝道旅行に出かけられたのでした。12節を見ますと「イエスがある町におられた時」とあります。この「ある町」という表現は、主イエスが弟子たちと共に伝道旅行をなさった町や村の数が非常に多かったことを示しています。ともあれ、その行った先の「ある町」でひとつの出来事が起こりました。それは、その町に「全身らい病になっている人」がいたのですが、この人が12節の後半にありますように「イエスを見ると、顔を地に伏せて願って」言いますには「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と申したわけです。

 

ここに「顔を地に伏せて」とありますのは、旧約聖書レビ記に記された律法の定めによって、らい病患者は誰かと会話する場合は必ず「顔を地に伏せ」なければならなかったからです。それはらい病患者であるということを相手に知らせて感染を防ぐための規定でした。当然のことながら、この律法の規定は非常な精神的・肉体的な苦痛を患者たちに与えました。なぜなら、当時の一般的な社会通念として、らい病患者は「神に呪われた人である」という考えが広く民衆の間にあったからです。

 

実は日本でも、昔はらい病のことを「天刑病」と申していました。つまり先祖の因果が子孫に報いてらい病になったのだ、という偏見があったわけです。だから「天刑病」(天が代わって罰した病気)と呼んだのです。全く酷い話ですが、実はそのような差別的な見方はつい最近まで残っていました。瀬戸内海にらい病患者のための病院と施設がある長島という小さな島があります。本土とは僅か50メートルの海峡で隔てられているだけです。この狭い海峡に橋を架けようという計画がかなり昔からありました。ところがそのつど地元の人々の反対によって橋の建設は見合されてきたのです。理由は「らい病患者たちと陸続きになりたくない」でした。ようやく橋がかけられたのは20年ほど前のことでした。これは2000年前のイスラエルではなく現代の日本の話です。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・箴言1814節に、このようにございました。「(14)人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか」。私たちは肉体的な苦しみや痛みには耐えられても、心の苦しみや痛みには耐えられない存在なのです。今朝の御言葉に現れたひとりのらい病患者がまさしくそれでした。彼の人生は言語に絶する苦しみの連続であったに違いありません。その苦しみと悲しみ、痛みと絶望をそのまま、彼は主イエスにぶつけたのです。いや「ぶつけた」というよりも、主イエスに訴えたのです。

 

 しかし、この人はらい病患者ですから、顔を上げて話をすることは許されませんでした。だから主イエスの足元に身を投げ出すようにして、顔を地面に伏せたまま、呻くように申しました。今朝の御言葉の12節後半をご覧下さい「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。これは何という驚くべき信仰告白でしょうか。彼は直截に「私の病気を治して下さい」と言えたはずです。しかし彼は「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と主イエスに申しました。これは主なる神に対する祈りの言葉です。つまりこの人は主イエスを神の御子キリストであるとこの言葉によって告白しているのです。

 

 主よ、あなたの御心ならば、私のこの苦しみ・痛みを治して下さい。しかし私はあなたの御心のみに従いますと申し上げたのです。主権は主イエスにあることを明確に告白しているのです。だから彼にとっては、肉体の癒しは最終的な問題ではありません。彼が求めているものは癒しではなく救いなのです。「主よ、私の救いはただあなたの御手にあります」と告白したのです。それが「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」という言葉です。

 

 これに対して主イエスはなんとお答えになり、その結果、この人の身に何が起こったのでしょうか?。どうか続く13節をご覧下さい。「(13)イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった」。

 

 ここで私たちが特に心惹かれますのは「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあることです。これは、当時のイスラエルの社会通念上考えられないことでした。それどころか、主イエスが手を伸ばしてらい病患者の身体にさわることは律法に違反する行為でもあったのです。こうしたことをパリサイ人や律法学者が見逃すはずはありません。こうしたことが積もり積もってパリサイ人や律法学者たちの主イエスに対する憎しみは決定的なものになり、やがて十字架の刑へと繋がっていったわけです。

 

 ということは、どういうことになるのでしょうか?。主イエスはここで既に、このたった一人のらい病患者のために十字架への道を歩んでおられるのです。主イエスは既に、この救いを求めるたった一人の魂のために十字架を背負っておられるのです。それが「イエスは手を伸ばして彼にさわり」とあることです。これは単なる道徳的ヒューマニズムではありません。2000年前にイエス・キリストという偉いかたがおられて、らい病患者の身体に触ってまでしてその病気を癒して下さったのだ、という出来事ではないのです。そうではなく、ここに私たちは明らかに十字架が立っているのを見るのです。

 

 それこそ、いまここに集う私たち全ての者のために、全ての人の救いのために、主が担って下さった十字架なのです。ということは「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と主イエスに申し上げたこの人も、十字架の主イエス・キリストを唯一の救い主として告白しているわけです。そして主はこのたった一人の救いのために、ゴルゴタへの道を決然として歩んで下さるのです。ここに、彼の救いが起こりました。否、ここにこそ、私たち全ての者の救いの出来事があるのです。

 

 それゆえ、私たちもまた、このらい病患者の人と共に、主イエスに心から申し上げる僕であり続けたいのです。「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と。それに対する主イエスのお答えはいつもひとつです。「そうしてあげよう、きよくなれ」。そこに、全ての人の救いの出来事が起こるのです。祈りましょう。