説   教     エレミヤ書1616  ルカ福音書5711

            「弟子たちの召命」 ルカ福音書講解 (29)

            2020・07・26(説教20301866)

 

 今朝の御言葉・ルカ伝57節以下を、もういちど口語訳でお読みしたいと思います。「(7)そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。(8)これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。(9)彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。(10)シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(11)そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った」。

 

 主イエス・キリストは、私たちのありのままの、日常生活のただ中に来て下さるかたです。そしてまさに主は、私たちの日常生活のただ中に救いの御業を現わして下さいます。それは、主があるがままの私たちを招いて、ご自身の弟子となして下さるという出来事です。主は私たちを弟子となさるために、なにひとつ私たちに特別な条件を求めたまいません。この時のガリラヤ湖畔の漁師たちがそうであったのと同じように、主の恵みは常に一方的な、驚くべき、奇跡的な「救いの出来事」として私たちに与えられる賜物なのです。

 

 主が「(4)沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい(もういちど漁をしてみなさい)」と言われたとき、常識としては、ペテロは大いに困惑したことでした。一晩中漁をしたにもかかわらず、一匹の魚も獲れなかったのです。しかも疲れているところを、主イエスの説教のために、わざわざもういちど舟を出したのです。しかしペテロはそのおかげで、主イエスの説教を、おそらく初めて、しかもいちばん身近で聴くことができました。その説教の言葉にペテロは打ち砕かれたのです。「もしかしたらこのかたがキリストかもしれない」と思ったのです。

 

だから主がペテロに「(4)沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われたとき、ペテロは答えました。「(5) 先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と。「しかし、お言葉ですから」このひと言にペテロの信仰告白が現れています。彼は、漁師歴30年の自分の経験ではなく、人間の常識ではなく、「主よ私はあなたの御言葉を信じます」と答えたからです。ここにペテロがはじめて「主よ」という言葉を用いていることに気を付けましょう。これから後、ペテロの生涯において決して変わることのなかったこの「主よ」という言葉、そして2000年後の私たちにもそのまま受継がれているこの言葉は、まさにこの日初めて、ガリラヤ湖に浮かぶ一艘の舟の上で告白されたのです。

 

 漁はもちろん、一人ではできません。ペテロ以外の他の漁師たち、ヤコブやヨハネやアンデレの協力が不可欠です。主イエスの御言葉に従い、ただ主の御言葉のみを信じて、主がお命じになったとおりに湖に網を降ろす。それはまさに私たちの教会の姿であり、教会のわざそのものなのではないでしょうか。私たちがここで聴くのは神の言葉です。そして私たちは新しい一週間をキリストの弟子として新しく生き始めます。その意味では、今朝の御言葉の出来事は2000年前の過去の一度限りの出来事ではなく、いまここにおける私たちの、主の御言葉に対する新しい応答の出来事です。そしてそこに、驚くべき神の御業が現れるのです。

 

 ペテロは、他の弟子たちも、夥しい魚で一杯になった網があまりにも重く、いまにも網が破れそうになったので、別の舟にいた仲間たちに大声で加勢を求めたことでした。それが今朝の7節の御言葉です。「(7)そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった」。これはなにを意味しているのでしょうか?。もう一艘の舟も、主イエスの御言葉に従って常識破りの漁に出ていたのです。しかし主イエスが共にいます舟だけが大漁だったのです。それは教会の本質を現わしています。

 

つまり、私たち全ての者たちにとって、キリストの現臨が救いの出来事そのものなのです。私たちはともすると「救い」というのは自分の心の中に起こる小さな出来事だと思っています。しかし、キリストが聖霊によって現臨したもうことそのものが私たちの「救い」なのです。この感覚が意外に多くのキリスト者に欠けているのではないでしょうか?。考えてみればすぐにわかることです。キリストが共にいましたもうなら、そこには私たちの人生と存在を根本的に新しくする「救いの出来事」が必ず起こるのです。その逆に、キリストが共にいましたまわないなら、私たちがたとえどんなに熱心に自分の心を見つめようとも、そこに救いは無いのです。

 

 だからこそ、今朝の御言葉は、私たちがいかにしてキリストの真の弟子となりうるのか、その唯一の理由を(根拠を)明確に告げています。それは少しも、私たちの条件や資格によってではありません。聖書の中には主イエスが弟子たちの適性検査をなさったという記述はどこにもありません。主の弟子たちはごく普通のガリラヤ湖の漁師でした。社会的に見るなら「特にとりえのない人たち」でした。では、何が彼らを主イエスの真の弟子たらしめたのでしょうか?。それは弟子たちの側に理由は無いのです。主イエスの側にのみ一切の理由があるのです。それは「恵みによる選び」です。

 

 主イエスは弟子たちを、ただ恵みによって、お選びになり、お招きになりました。教会のことをギリシヤ語で「エクレーシア」と言います。それは「ただ恵みによって招かれた者たちの集い」という意味です。それならば、ここに集う私たち全ての者が、いま主イエスの「恵みによる選び」にあずかる僕たちとされているのです。私たちの側の資格や条件は、何ひとつとして問われていません。主が私たちに求めておられるのは信仰のみです。信仰とは「信じて仰ぐ」と書きます。「信じて自分の心と向き合う」とは書かないのです。信仰とはただひたすらに、招きたもう主イエスの恵みに自分を委ねることです。

 

 そのとき、私たちの人生に、測り知れない喜びと幸いが与えられるのです。それこそ「(9)取れた魚がおびただしいのに驚」く私たちの人生です。主イエスが共におられるなら、そこに私たちの確かな、唯一の、永遠の救いがあるからです。いまここにいる私たち一人びとりが、その救いにあずかる者たちとされているのです。祈りましょう。