説   教      詩篇24910節   ルカ福音書516

            「御言葉に随いて」 ルカ福音書講解 (28)

            2020・07・19(説教20291865)

 

 先ほどお読みした旧約聖書の詩篇第24910節に、このようにございました。「(9)門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。(10)この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」。これは伝統的に礼拝招詞としてよく読まれてきた御言葉です。つまり私たちはこの言葉によって礼拝を始めるのです。それは礼拝を基調とした新しいキリスト者の生活です。主に従う僕たちの生活です。

 

 この旧約の御言葉を念頭に置きつつ、私たちは改めて、今朝のルカ福音書51節以下をお読みしたいと思います。「(1)さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、(2)そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた」。

 

 ここに記されているのは、ガリラヤ湖畔の漁師の日常的な姿です。ガリラヤ湖の漁は夜の間に舟に漁火を焚いて行われます。そして夜明けになると港に戻ってきます。これは今日でもそうでして、私はガリラヤ湖畔のティベリアスの宿の窓から漁火を観た経験があります。カペナウムの漁師たちは2槽の舟で夜通し漁をしまして、いままさにカペナウムの岸辺に戻ってきたところでした。そこで彼らは2節にありますように「漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた」のでした。

 

 主イエス・キリストは、私たちのごく平凡な日常生活のただ中に来て下さり、そこでこそ私たちと一緒にいて下さるかたです。主は私たちに何も特別なものをお求めになりません。主は私たちに「ありのままの、いつものあなたで良いのだ」とおっしゃって下さるかたなのです。そして主はその「ありのままの私たち」に驚くべきことをお求めになります。それは、私たちにもういちど舟を沖に出させ、その舟の上からご自分が岸に集まった群衆に対して説教をなさることでした。

 

 これには2つの理由があったと思います。第一に、主イエスの噂を聞きつけてカペナウムに集まってきた人々の数が非常に多かったからです。事実群衆はペテロの家の周りに雲霞の如く押し寄せてきて、とても説教ができる状態ではありませんでした。第二に、海の上ですと驚くほど遠くまで声が通るのです。たぶん主イエスはそのことを知っておられたのでしょう。だから主はわざわざ弟子たちに、もういちど舟を沖に漕ぎ出させて、その上から岸にいる群衆に説教をなさったわけです。

 

 弟子たちにしてみれば、夜通し漁をして疲れ果てていたところに、このような主イエスの「たっての願い」を聞き入れることには少なからぬ抵抗感があったに違いありません。喫茶店の経営者から話を聞いたことがあります。いちばん迷惑なのは閉店間際に来た客なのだそうです。主イエスは弟子たちが「舟からおりて網を洗っていた」いわば閉店間際に来られて「説教壇()になってほしい」と頼んだわけですから、気の短いペテロなどは「いくら先生の願いだってそれは迷惑ですよ」と言いたかったかもしれない。その「疲れ仕事」がようやく終わったのです。つまり、主イエスの説教が終わったのです。やれやれ、今度こそは家に帰れるぞと、ペテロやアンデレやヨハネはそう思ったことでした。

 

 ところがです。ところが、その彼らに対して、主イエスは信じられないことをおっしゃる。今朝の御言葉の4節です「(4) 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。もうここまでくると漁師たちは「えええーっ?!」という感じだったでしょう。「先生、冗談言っちゃあいけませんや。私たちは一晩中漁をしてきたんです。ところがベテラン漁師の私らでも何も獲れなかったんです。おまけに先生の説教にまで付き合ったんです。疲れていて、もう一刻も早く家に帰りたいんです」そのように言いたかったに違いありません。

 

 しかし、ここに驚くべきことがもうひとつ起こるのです。それは今朝の御言葉の5節において、シモン・ペテロが主イエスにはっきりと語った言葉です。「(5) シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。ペテロはつまり、こう言ったのです。先生、私たちはみんなベテランの漁師です。その私らが夜通し働いても、一匹の魚も獲れませんでした。しかし、先生のお言葉を信じて、お言葉に従って、私たちはもう一度この舟を沖に漕ぎ出して、漁をしてみましょう」。

 

 これはなんという素晴らしい言葉でしょうか。人間の経験としては、人間の知識としては、再び沖に舟を出して漁をすることが無意味だということは百も承知です。おまけに私たちはみんな疲れ切っています。しかし「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」とペテロは言ったのです。ただ主イエスの御言葉に全てを賭け、主イエスの御言葉のみを信じたのです。漁師歴30年の自分の経験や知識ではなく、ただ主イエスを信じたのです。それが今朝の5節の御言葉なのです。「(5) シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

 

主イエスに対するこのペテロの応答は、本当に素晴らしいものです。その理由は何だったでしょうか?。私はそれは、ペテロが船の上で、主イエスの説教を真剣に聴いていたからだと思います。最初は疲れていて、早く家に帰りたがっていたペテロでした。しかし主イエスのたっての願いで、主イエスの説教のために舟を沖に出しました。そこで聴いた主イエスの説教に、ペテロは打ちのめされたのです。新しくされたのです。ああ、ここには神の御言葉をそのまま、正しく、真実に語って下さるかたがおられる。そう感じたのです。さらにペテロは思いました。このかたこそ神の子・キリストに違いないと。だから2度目の言葉にもペテロはすぐに従ったのです。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と。これは信仰による従順です。主イエスをキリストと信じて、その御言葉を信じたのです。

 

 その結果、そこに何が起こったのでしょうか。最後の6節をご覧下さい。「(6)そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」。ここには、私たちが主イエスの御言葉にお従いするとき、私たちの人生に必ず起こることが示されています。私たちの想像を遥かに超えた素晴らしい出来事が、そこには必ず起こるのです。なぜでしょうか?。主イエス・キリストこそ、永遠にして唯一の神の独子にいましたもうからです。それゆえ、いま私たちもこのかたに心から従順にお従いする者になりましょう。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と申し上げ続ける人生を、新しい一週間を、歩み続けて参りたいと思います。祈りましょう。