説   教    詩篇10717節   ルカ福音書44244

            「全ての人の救い」 ルカ福音書講解 (27)

            2020・07・12(説教20281864)

 

 先ほどお読みした旧約聖書・詩篇107篇の2節と3節に、このようにございました。「(2)主にあがなわれた者は言え。主は彼らを悩みからあがない、(3)もろもろの国から、東、西、北、南から彼らを集められた」。ここには、主なる神が救いの御業を全世界に現わしておられることが示されています。日本語では普通「東西南北」と言いますが、古代イスラエルでは「東西北南」という順になります。これがすなわち「全世界」という意味です。なぜ「南」が最後になるかと申しますと、イスラエルの南はどこまでも続く砂漠でありまして、そこには人が住んでいなかったからです。

 

 それならば、主なる神は、人が住んでいないような厳しい土地、人跡未踏の砂漠にさえも救いの御業を現わして下さるかたである。そのような確固たる神信頼(信仰告白)がここには示されているわけです。さらに申しますと「南」のことをヘブライ語で「ヤーミーム」と言います。そしてベニヤーミーム(ベンヨーミーム)בֶּן יָמִים”と申しますと、それは「わが最愛の子」という意味になるのです。つまり、主なる神は「わが最愛の子」を最後に呼び集めて下さるかたである。ということは、誰一人として主なる神の御前に忘れられた存在はない、という意味になるのです。

 

 このことをご一緒に心に留めながら、私たちは改めて今朝のルカ伝福音書442節以下をお読みしましょう。「(42)夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。(43)しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。(44)そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた」。

 

 他のルカ伝の御言葉と同じように、今朝のこの御言葉も一見したところごく単純な出来事を示しています。私たちはこの御言葉と同じような場面を、ルカ伝の終わりに近い2413節以下にも見出すことができます。主イエスが十字架におかかりになって数日後のことでした。「ふたりの弟子」がエルサレムからエマオに続く寂れた道を歩いていますと、見知らぬ一人の人が近づいてきて、彼らに十字架の出来事について訊ね、そして自らも旧約聖書に基づいて十字架のイエスこそ全世界の救い主キリストであることを解き明かしました。復活にまで話は及びました。彼らが話をしながらエマオの村に着いた時、もう日が暮れて夜になっていました。ところがその人は更に道を先に進もうとしていた。驚いた二人の弟子たちは慌ててその人を引き留めて申します。2429節です。「(29)そこで、しいて引き止めて言った、『わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています』。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた」。

 

 その晩、宿の夕食の席で、その人が祝福してパンを割き、またぶどう酒を配られた様子を見て、二人の弟子たちの信仰の目が開かれ、ようやく気がつくのです。「ああ、このかたは主イエスだ!」と2431節と32節を見ましょう。「(31)彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。(32)彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。弟子たちは改めて気がついたのです。主イエスの弟子として毎日主イエスの御口から説教の言葉を聴いていた、その時に弟子たちの心が信仰の炎によって熱く燃え上がった、その時の気持ちと同じだったじゃあないか。そして「ああ、こにかたは主イエスだ」とわかった瞬間、お姿が見えなくなった。それは「あなたがたも同じように、寸暇を惜しんでこの道を先に進み、全ての人々に福音を宣べ伝えなさい」との御心にちがいない。この大切なことにようやく気がついたのです。

 

 キリスト教は、過去の思い出に生きる宗教ではありません。「かつて2000年前にイエス・キリストという偉い教祖がいた。私たちはその教祖の遺徳に倣って生活しようではないか」それはキリスト教ではないのです。そうではなくて、私たちが信じるのは、十字架におかかりになり、3日目に復活して、天の父なる神の右に挙げられ、いま聖霊によってここに現臨したまい、救いの御業を全ての人々に現わしておいでになる、現臨の主イエス・キリストです。つまり私たちは過去の思い出に生きるのではなく、現臨したもう主イエス・キリストと共に「さらに道を進み行く」群れなのです。

 

 それと全く同じ事柄が、まさに今朝のルカ福音書442節以下にもはっきりと現わされています。主イエスがガリラヤ湖畔の「寂しい場所」で祈っておられたとき、人々がそこに押しかけて来まして、イエスさま、こんなところで一人で何をなさっているんですかと詰問しました。人々は(つまり私たちは)主イエスが一人で祈っておられることを「時間の無駄だ」と判断したわけです。イエスさま、あなたはもうカペナウムの村長に選ばれました。だから今後もずーっとカペナウムにいて下さらなければ困るんです。私たちの言うことをよく聞いて、私たちの願いどおり、思いどおりに動いて下さらなければ困るんです。こんな寂しいところで一人でお祈りなんかされてたらみんなが迷惑するんですと、そのように言ったわけですね。その彼らに対して主イエスは優しく、しかし毅然としてこう言われました。43節です。「(43)わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」。

 

 私の恩師である熊野義孝先生、世界でカール・バルトに匹敵する、否、バルト以上に優れた神学者だと私は思いますが、その熊野先生があるときこう言われました。「キリスト教は本山を持たないことを特質とする」と。私は大きな感動をもってこの言葉を聴きました。それこそ「心が内に燃え上がる」経験をしたことでした。熊野先生がおっしゃる「本山を持たない」とは、生ける現臨の主イエス・キリストが「福音そのもの」なのだという意味です。その「福音そのもの」でありたもう生ける復活の主イエス・キリストが、今朝の御言葉を通して私たちに語っておられるのです。(43)わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」。

 

 主イエス・キリストは、全ての人を救うために人となられ、十字架への道を歩まれ、復活されて天の父なる神の右に座したまい、そして聖霊によって教会をお建てになり、私たちのただ中に現臨したもう生ける救い主でありたまいます。この主イエスが(43)わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われるのです。私たちは自分の内側にキリストを限定して良いでしょうか。教会はキリストの御身体であって、その逆ではありません。いかなる教会も「本山」を名乗ることはできません。同じように、私たちはキリストの僕であって、その逆ではありません。キリストが私たちの僕ではないのです。

 

 最後に、私たちは、この43節において主イエスが「自分はそのためにつかわされたのである」と言われていることに心を留めましょう。これはとても珍しい表現です。主イエスは敢えて「わたしは」とは言ずに「自分は」とおっしゃったのです。それはどうしてでしょうか?。ルター訳のドイツ語の聖書に答えがありました。ルターはここを“denn dazu bin ich gesandt werden”と訳しています。直訳しますと「私はこの務めのために派遣されている」です。この「私」は「自分」と切り離せません。つまり「この務め」とは十字架のことであり、それは全ての人の救いのために、ただ主イエスのみが担って下さった唯一の出来事なのです。このことを主は明確にしておられる。

 

 だからこそ主は「自分はそのためにつかわされたのである」と言われたのです。この「自分」は唯一の救い主イエス・キリストです。天上天下この唯一の御名の他に、私たち全ての者の救いはないのです。祈りましょう。