説   教   詩篇222324節  ルカ福音書44041

         「主は苦しむ者と共におられる」 ルカ福音書講解 (26)

            2020・07・05(説教20271863)

 

 先ほど拝読しました旧約聖書・詩篇第2223節以下に、このようにございました。(23)主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。(24)主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである」。

 

ここには古代イスラエルの詩人(信仰告白者=礼拝者)による最も切実な神への讃美が現わされています。私たちはなぜ主なる神を讃美するのか。なぜ真の礼拝を献げるのか。それは「(24)主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたから」だと詩人は語るのです。

 

神はいと高きにいましたもう聖なるかたですが、私たちの苦しみや悲しみを見ておられないかたではない。否むしろ私たちが様々な苦しみや悲しみを経験するとき、主なる神はその苦しみや悲しみを「軽んじたり、厭いたもうことなく」「その者に御顔を隠したもうこともなく」「その叫ぶときに聴かれる」かたであると言うのです。

 

 そこで、私たちは改めて新約聖書・ルカ福音書440節以下に心を留めたいと思います。「(40)日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。(41)悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである」。

 

 主イエスはガリラヤ湖畔のカペナウムという村で、シモン・ペテロの姑の病気を癒して下さいました。その奇跡の噂はたちまちにしてガリラヤ中に知れ渡り、ここに「いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が」大挙してシモン・ペテロの家に滞在しておられる主イエスを訪ねてやって来た様子がわかるのです。たちまちにして、シモン・ペテロの家の前には長い行列ができました。いえは小さな民家ですからとても全ての人を中に入れることはできなかったからです。

 

 ここでいちばん驚き、困惑したのは、むしろこの家の人たちではなかったでしょうか?。シモン・ペテロの姑の病気を主イエスが癒して下さった、その喜びに浸っている間もなく、驚くほど大勢の人たちがこの小さな家の前に行列を作って犇めいたのです。恐らくシモン・ペテロなどは、彼は直情径行型の性格でしたから、この群衆たちに向かって「帰れ!」と叫んだかもしれません。少なくとも「主イエスよ、この群衆をどうしたら良いのでしょうか?」訊いたと思うのです。

 

 ところが、主イエスは泰然自若としておられる。ああそうか、それならその人たちをひと家族ずつ中に入れてあげなさい。私が彼らの病気を治してあげようと、あたかも当然のごとくにそうおっしゃったわけです。その主イエスの言葉に呼応するかのように、熱病を癒して戴いたシモン・ペテロの姑が「それなら私はイエス様のお手伝いをさせて戴きます」と言って、いそいそと甲斐甲斐しく、これらの群衆の世話をはじめた。そのような様子が今朝の御言葉からはっきりと読み取れるわけです。

 

 特に私たちが心して読みたいのは41節に主イエスが「そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった」と記されていることです。最近は医者でも患者に触る、いわゆる触診をしてくれる医者が少なくなりました。酷い場合には患者のことはほとんど見向きもせずに、パソコンの画面だけを見て診察している医者も珍しくありません。たしかにパソコンの画面に現れたデータや数値も大事かもしれません。しかし現実に病気に苦しみ、不安や痛みを抱えている患者にきちんと向き合わずして本当の治療ができるはずはないのです。

 

 主イエスは違いました。主イエスは「そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった」のです。私は横須賀の衣笠病院で手術を受けて入院いたしましたとき、もう20年ぐらい前のことですが、チャペルでの職員礼拝での説教を依頼されました。私は牧師ですがいちおう入院患者ですし、着ているものも入院中の恰好でしたからお断りしたのですが、いやいやそのままで良いですからぜひ説教をお願いしますと、当時の南院長に言われまして引き受けました。そのとき取り上げた御言葉が今朝のこのルカ福音書440,41節であったことを思い出しております。

 

 今朝の御言葉に現された主イエスのお姿は、一人びとりの患者を「かけがえのない唯一のあなた」として迎え入れ、その一人びとりに丁寧に「手を置かれて」その病気をお癒しになった、そういう救い主キリストのお姿です。それは単なる肉体の病気の「癒しの出来事」ではなく、私たちを罪と死から救いたもう「救いの出来事」でした。それを最もよく現わしているのが続く41節の御言葉です。すなわち「(41)悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである」とあることです。

 

 ただ単なる肉体の病気の「癒しの出来事」であるなら、悪霊は(すなわち罪と死は)私たちの中に居座り続けていたはずです。単純なことです。たとえ重い病気を癒されたとしても、その人はそれで「永遠の生命」を得るわけではないからです。やがていつの日にか人間は死ぬからです。その確実にやって来る死に対して無力な「癒しの出来事」とは根本的に違う「救い」を主イエスは私たちに与えて下さいます。そのとき「あなたこそ神の子です」と主イエスに向かって叫びつつ、罪と死の支配は私たちから離れ去るのです。そして私たちは主イエス・キリストの十字架による、永遠の恵みの御支配のもとに新しく生きる者とされるのです。それが「救いの出来事」です。

 

 40節をもういちど心に留めましょう。「(40)日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった」。これは何をさしているのかと言いますと、主イエス・キリストが私たちのために担って下さった十字架の出来事をさしているのです。一昨年の811日に天に召された私の友人である水野牧師が語っていました。主イエスが私たち一人びとりに全力で手を置いて下さった。主イエスは誰一人にも「手抜き」をなさらなかった。それは主イエスの十字架の出来事による唯一の「救い」をあらわしているのだと。

 

 私も心からそのように思います。否、心からそう信じます。主イエスは私たちの誰に対しても「手抜き」をなさらなかった。全身全力で私たちに「手を置いて」私たちを罪と死から贖って下さった、救って下さった、御国のご支配のもとに生きる者として下さった。それが今、私たち一人びとりに与えられている確かな「救いの出来事」です。

 

だから主は、最後の御言葉になりますが、主イエスは悪霊どもを、罪と死の支配に対して「イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった」のです。ただまことの信仰告白、正しいキリスト告白に基づいた真の教会が形成され、そこに連なる幸いを与えられた私たちは、ここでひとり残らず主イエスに「手を置いて」戴いて「救いの出来事」を現わして戴いているのです。私たちが、ほかならぬここにいる全ての人々が、まさにその一人びとりとされているのです。祈りましょう。