説   教   詩篇191214節  ルカ福音書43137

            「権威と御力」  ルカ福音書講解 (24)

            2020・06・21(説教20251861)

 

 今朝私たちに与えられたルカによる福音書431,32節の御言葉を改めて口語訳でお読みしましょう。「(31)それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、(32)その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた」。主イエスの故郷ナザレでの初めての説教は散々な結果で終わりました。ナザレの人々は主イエスの説教によって自分たちの罪が指摘されたことに憤り、主イエスを会堂から追放し、町はずれの崖の上から突き落とそうとしたのでした。しかし主イエスは30節にありましたように「彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」のです。

 

主イエス・キリストは、私たち全ての者の罪の贖いと救いのために、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さるかたです。だからこそ主は私たちの「まん中を通り抜けて、去って行かれた」のです。それなら、ここで既に主イエスはまさに“十字架の主”であられます。福音書記者ルカはこの事実を明確にしているのです。その“十字架の主”イエスは、すぐ次の安息日に、同じガリラヤのカペナウムという町の会堂で説教をなさいました。それが今朝の31節以下の御言葉に記された事柄です。

 

私たちは、ここに「イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた」とあることに注目したいのです。標高300メートルの山の上にあるナザレの町から見るなら、カペナウムはガリラヤ湖の岸辺にある小さな村にすぎず、そこに行くためには文字どおり山を「下って」行かねばなりませんでした。だから当時のイスラエルの人々はカペナウムを含めたガリラヤ湖周辺の地域のことを「異邦人のガリラヤ」または「暗黒の地」と呼んで蔑んでいたのです。それならば、主イエスは“十字架の主”として、まさにその「異邦人」の住む「暗黒の地」に下って来て下さったかたです。主イエスは私たちの日常生活の現実のただ中に来て下さるかたなのです。

 

432節を改めてご覧ください。「(32)その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた」と記されています。故郷ナザレの人々とは違って、カペナウムの村人たちは主イエスの説教を心から感謝を持って受け止めたのです。どうしてカペナウムの人々は主イエスの説教に「驚いた」のでしょうか?。それは主イエスのお語りになる言葉には「権威があった」からです。ここで少し言葉のことを申します。ギリシヤ語で権威のことを“エクスーシア”と言います。それは直訳すると「本質から出た御力」という意味です。権威があるから言葉に力がある、と考えるのが世間一般の常識ですが、エクスーシアはその逆でして、言葉に御力があるからこそカペナウムの人々は主イエスに「権威」があることがわかったのです。

 

 そこで、その御力の「権威」とは何かと申しますと、それは神の言葉の権威なのです。それは私たち全ての者を限りなく愛し、私たちの救いのために独子イエス・キリストを世に与えて下さった神による「救いの権威」です。神の権威は「救いの権威」なのです。だからその権威が主イエスの説教によって現れたとき、そこには人々の救いの出来事が起こりました。だから聴いたカペナウムの人たちはみな「驚いた」のです。御言葉に御力があったからです。

 

 特にこの日、カペナウムの会堂で主イエスの説教を聴いていた人々の中に「汚れた悪霊につかれた人」がいました。改めて33節と34節を見て下さい。「(33)すると、汚れた悪霊につかれた人が会堂にいて、大声で叫び出した、(34)「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。私はこの「汚れた悪霊につかれた人」が会堂の中で主イエスの説教を聴いていたことは偉いと思います。この「汚れた悪霊」とは聖霊の反対語でして、私たち人間はキリストによる真の救いに与からないままではいつも「汚れた悪霊」に支配されている存在なのです。だからこの人が特別なのではなくて、この人は私たち全ての者を代表しているのです。

 

 この人が、つまり、私たちが、主イエスに向かって叫びました。悪霊が私たちをしてこう叫ばしめたのです。「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。この「神の聖者」という言葉は旧約聖書の預言者を現すものです。ですからこれは一つの信仰告白、それもかなり立派な信仰告白だと言えるのです。しかし主イエスは彼をお叱りになるのです。悪霊をお叱りになるのです。今朝の35節以下をご覧下さい。「(35)イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った。(36)みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。(37)こうしてイエスの評判が、その地方のいたる所にひろまっていった」。

 

 この人が、悪霊が叫んだ言葉の中に「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」という問いがありました。これはとても大切です。全ての人間が、意識するとせざるとに関わらず、心の中にこの大きな問いを持っているからです。「主イエス・キリストは、この私にとってどういう関わりのあるかたなのか?」という問いです。それに対して主イエスは神の御言葉の「救いの権威」をもってお答えになるのです。「黙れ、この人から出て行け」と!。主イエスは悪霊の信仰告白をお許しになりません。私たちが罪の支配のもとにあり続けるのを看過なさいません。

 

そうではなくて、神の御言葉による「救いの権威」をもって宣言して下さるのです。「黙れ、この人から出て行け」と!。そして私たちに悪霊によるのではなく、正気による信仰告白をお求めになるのです。すなわち、それは信仰に基づく正しい信仰告白です。そうです、私たちは“十字架の主”の贖いの恵みによってのみ、悪霊すなわち罪の支配から自由にされて、聖霊なる神の導きのもと、信仰によって主イエスを「わが神、わが救い主」として告白する者とされるのです。

 

 カペナウムの人々は、互いに口々にこう語り合いました。「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。この言葉はギリシヤ語の文法で「今もなお続いている出来事」をあらわす言葉で書かれています。“十字架の主”イエス・キリストによる救いの「権威と御力」は、いまここに、私たちのただ中に、力強く現わされているのです。私たち一人びとりが、いま、主にあって贖われ、救われた僕として、新しい一週間の信仰の歩みへと遣わされているのです。祈りましょう。