説    教    列王記上1717節   ルカ福音書42530

               「御言葉による改革」  ルカ福音書講解 (23)

                2020・06・14(説教20241860)

 

 主イエスはとてもよく聖書の御言葉を読んでおられました。主イエスの時代、つまり今から2000年前の聖書は旧約聖書だけで、新約聖書はまだありませんでした。しかもそれはヘブライ語で書かれた巻物でしたけれども、たぶん主イエスはそれを全て暗記していらしたのではないかと思われます。私はよく日曜学校の子供たちへの説教でこのことを語ります。「イエス様は聖書を全て暗記していらっしゃいました。みなさんもイエス様に倣って、暗記するほどたくさん聖書を読んで下さい」と言います。そこで、今朝の御言葉であるルカ伝425節以下は、まさに主イエスがどれほどよく聖書を読んでいらしたかがよくわかる場面なのです。

 

 それは主イエスが故郷ナザレの会堂において、説教壇の上から“説教の言葉”として人々にお語りになったことです。すなわち今朝のルカ伝425節以下には列王記上171節以下にある預言者エリヤとサレプタの寡婦の女性との会話の出来事が記されており、そして27節以下には列王記下51節以下にあるシリヤのナアマンの癒しの出来事が記されているわけです。私はこの御言葉を読んで単純に驚きます。主イエスは本当によく聖書を(旧約聖書を)読んでいらっしゃった。全文を暗記しておられた。そして縦横無尽に聖書の御言葉を引用なさって、そこに集まっている人々の心に届く説教をお語りになった。そういう様子が今朝の御言葉からよくわかるのではないでしょうか。

 

 いま私は「そこに集まっている人々の心に届く説教」と申しました。私もまた説教者の一人として、そのような説教を語ることを自らの使命とし理想としています。そのときいつでも問われることは、また最も大切なことは、その説教によってキリストが指し示されることです。いわば牧師は毎週の説教においてキリストを紹介しているのだと言って良い。説教とは、それを聴く全ての人々にイエス・キリストを紹介するものだと言い切って良いのです。逆に言うなら、キリストが指し示されていない説教はどんなに雄弁な語り口であっても説教とは呼べないのです。だから「人々の心に届く説教」とは「人々にキリストを紹介する説教」のことなのです。

 

 そこで改めて、私たちは不思議なことに気がつくのではないでしょうか?。今朝のルカ伝425節以下において、この説教を語っておられるのは主イエス・キリストご自身なのです。ならば主イエスはここで、ご自身のことをナザレの人々に自己紹介しておられるわけです。主イエスは永遠の神の御子であられます。父なる神と本質を同じくしたもうおかたです。それならば、主イエスがお語りになる言葉はその一言一句がそのまま全て「神の言葉」なのです。ちょっと変な言いかたですが、説教としてこれ以上の説教はあり得ないと申して良いでしょう。紹介されるべきかたご自身が自己紹介をしておられるのですから。これほど確かな、人々の心に直接に届く説教はあり得ないのではないでしょうか。

 

 特に、些か個人的なことを申しますなら、主イエスが最初に引用なさった列王記上171節以下の出来事は私の好きな場面です。迫害を受けてケリテ川の畔に身を潜めた預言者エリヤを、主なる神が一羽のカラスにお命じになって毎朝食べものを届けさせたエピソードです。日本ではとかく嫌われもののカラスですが、イスラエルにおいては預言者エリヤを助けたり、ノアの物語においてはメッセンジャーの役割をしたり、あるいは主イエスの例え話の中でも「からすのことを考えてみよ」という御言葉がルカ伝1224節に出てきます。主イエスもカラスがお好きだったのです。

 

 さて、そのような主イエスの説教は、では故郷ナザレの人々にどのように受け止められたのかと申しますと、結果として見るならば、それは散々な結果に終わったのでした。今朝のルカ伝428節以下をご覧下さい。「(28)会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、(29)立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。(30)しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」。

 

 ここには、ナザレの会堂にいた人々かあたかも引きずり降ろすようにして主イエスを説教壇から降ろし、会堂の外に追い遣り、さらにはそのままナザレの町が建っている「丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした」ことがわかるのです。もし私に譬えてみたらこういうことです。今日の中村牧師の説教は酷すぎる、許せない!。こんな奴は生かしておけない!。そう言ってみんなが寄ってたかって私を説教壇から引きずり降ろし、仙元山の崖から突き落とそうとした、敢えて例えて言うなら、まさにそういうことが今朝の御言葉には書かれているわけです。

 

 どうして、主イエスはそんなに酷い扱いを故郷の人々から受けられたのでしょうか?。その理由は、主イエスの説教が本当に「神の言葉のみを語る説教」であり「ただキリストのみをさし示す説教」だったからです。私たち人間はいつも、罪に対して親和性を持っている存在なのです。神の言葉、私たちに真の救いと自由と幸いを与える神の言葉ではなくて、自分を喜ばせ、自分を富ませ、自分を楽しませる、そういう罪の支配に対してだけ心を開こうとする存在なのです。譬えて言うなら、真っ暗な部屋の中にいる人は自分の姿も見えないのと同じです。罪の支配に閉ざされてしまっているとき、私たちには自分の姿も見えないのです。だから、自分が何を求めるべきなのかさえわからなくなるのです。神の言葉よりも、罪の言葉のほうに親しみを、喜びを感じてしまうのです。

 

 ナザレの人々も全く同じでした。だから主イエスが聖書の御言葉を引用なさって人々の罪の姿を指摘なさったとき、人々は「いいや違う、我々の姿はそんなものではない」と言って怒り狂ったのでした。自分が見えていませんから怒り狂ったのです。そして主イエスを「生かしておけない」と判断して、町外れの崖の上から突き落とそうとしたのです。そこには普段から主イエスを苦々しく思っていたパリサイ人や律法学者たちの思惑も働いていたことでしょう。彼らが街の人々を扇動して主イエスを殺害しようとしたのかもしれません。いずれにせよ、私たちがここで見るべきは主イエスのお姿です。主イエスはこの混乱の中でどのようになさったのでしょうか?。

 

 私はかつてナザレを訪ねたとき、今朝のこの御言葉の場面である町外れの崖はどこだろうかと探しました。そして歩き回って、ついにそれらしい場所を見つけることができました。それは文字どおりの断崖絶壁でした。そこから突き落とされそうになったなら、その恐怖は非常なものだったに違いありません。しかし主イエスはどうなさったか、そのことが今朝の御言葉の終わりの30節に記されています。「(30)しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」。普通の人だったら、このような絶体絶命の事態に際して、まず逃げること、逃れることを考えるでしょう。その場合、できるだけ真中は避けて、端のほうから、つまり、人がなるべく少ないところから、逃げようとするのではないでしょうか。

 

 しかし、主イエスは違いました。主イエスは「(30)しかし、イエスは彼らのまん中を通り抜けて、去って行かれた」のです。それはなにを現わしているのでしょうか?。それは、主イエス・キリストが私たちの罪の現実の「まん中を」通って十字架への道を歩んで下さるかただという事実を示しているのです。主イエスは私たちの罪の姿を知り抜いておられます。たとえ私たちには罪の自己認識がなくても、主イエスは私たちの真実の姿を全て知っておられます。だから主イエスは私たちの「まん中」を通って十字架への道を歩んで下さいます。それは私たちを避けて通るのではなく、私たちの現実の罪の全てを一身に担って下さるキリスト(救い主)として、十字架に向かわれる道なのです。

 

 だから、今朝のこの430節の御言葉には大きな福音が宣べ伝えられています。私たち一人びとりがいま、主イエスご自身から問われているのです。「あなたは、わたしを信じますか?」と。あなたを避けないで、あなたの真ん中を通って、あなたのために、あなたの救いと自由と生命のために、十字架への道を歩む、その私をあなたは信じて、私の弟子としての生涯を歩みますか?と、主イエスご自身がみずからの説教を通して、私たち全ての者に語り告げていて下さるのです。十字架の主イエス・キリストこそ、否、十字架の主イエス・キリストのみが、説教の主題であり、聖霊と御言葉を通して私たちのただ中に現臨しておられる救い主なのです。祈りましょう。