説    教     列王記下5812節   ルカ福音書42224

               「預言者の故郷」  ルカ福音書講解 (22)

                2020・06・07(説教20231859)

 

 時は今からおよそ2700年前、古代イスラエルがスリヤという国と戦争をしていた頃のことです。スリヤの全軍を率いる将軍ナアマンは重いらい病を患っていました。当時の社会では、らい病は不治の病として最も恐れられていました。そこで、主人ナアマンがらい病で苦しむ様子を見ていたイスラエル人の一人の奴隷の少女が、イスラエルのサマリヤ行けばエリシャという名の預言者がいて、どんな病気も治してくれると告げたのです。そこでナアマンはこの少女の言葉を頼みとして、イスラエル王に対するスリヤの王の紹介状(つまり通行手形=入国許可証)を持って預言者エリシャに会いに行くわけです。

 

 さて、はるばるやって来たナアマンに預言者エリシャはこう言います。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」(王下5:10)と。しかしこのエリシャの答えにナアマンは失望し、怒ってスリヤに帰ってしまうのです。「なんだと?ヨルダン川の水で身体を洗えだと?そんなことだったらスリヤのアバナ川やバルバル川の水のほうがよっぽど奇麗じゃあないか。ばかばかしい」と言ったわけです。預言者の言葉を信じなかったわけです。自分自身を主とし頼みとしたのです。

 

 もちろん、それではナアマンの病気は治るはずはありません。そこで見かねた部下の一人がナアマンに進言するのです。「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」(王下5:13)。つまり部下はこのように言ったのです「信じなければ何も始まりません。まして預言者エリシャがあなたに言ったことは難しいことではない、ただヨルダン川に行って七たび身体を洗えばそれで良いのではないですか?」。この言葉によってナアマンは重い直して、ヨルダン川に行ってエリシャの言葉のとおりに七たび身体を洗いました。するとらい病がたちどころに治った。そういう出来事が今朝の列王記下58節以下に記されていたわけです。「(5:14)そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった」。

 

 さて、そこで私たちは改めて今朝のルカ伝422節以下を見てみましょう。「(22)すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。(23)そこで彼らに言われた、「あなたがたは、きっと『医者よ、自分自身をいやせ』ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」。(24)それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」。ここには、故郷ナザレの会堂で初めての説教をなさった主イエスの、その説教を聴いたナザレの人々の反応が記されているわけです。

 

まず22節を見ますと「彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った」とあります。これは要するに、ああ、あのヨセフの息子のイエスは立派になったもんだ。こんなに良い説教ができるなんて、本当にたいしたものだ。そう言って口々に主イエスの噂をし合ったわけです。ここまではまあ人情味のある反応として微笑ましい話です。しかし問題は続く言葉です「この人はヨセフの子ではないか」と人々は言い合ったのです。これは明確に侮蔑的な発言でした。あのヨセフの子のイエスがこんなに立派な説教ができるなんて、冷静に考えるならありえないことだ。おかしいことだ。パリサイ人の先生だってあんなに良い説教はできやしないのに、貧しい家庭のヨセフの子イエスにこんなに良い説教ができるなんて、やはりどこかにカラクリがあるに違いない。そのように人々は語り合ったわけです。

 

 これは要するに、預言者エリシャの言葉を信ずることをせず、自分の知識と経験を頼みとした(つまり自分を主とした)ナアマンの姿に重なるのではないでしょうか。そして本当の問題は、私たちもまた、このナアマンやナザレの人々と同じ罪をおかすのではないか、ということなのです。ここに記されている罪の姿、神の言葉ではなく、自分自身を頼みとする罪の姿こそ、ほかならぬ私たち自身の姿でもあるのです。

 

 いきなり東京神学大学の話になりますが、私たちが常日頃応援している東京神学は日本で最も古い神学校であり、その起源は1858年にまで遡ることができます。当時の学校名は「ブラウン神学校」(Brown Seminary)と言いました。場所は今日の横浜共立女学校のある場所です。昨年の9月に私の友人である大住雄一君が現役の学長のまま天に召されました。その学長の系譜のいちばん最初にあたる人物がネイザン・ブラウンという宣教師です。そこで、このブラウン宣教師は卒業生たちに一つの大きな課題を出しました。それは、神学校を卒業して最初の説教を、ぜひとも故郷においてするようにという課題です。ある意味でこの課題は今日に至るまで東京神学に引き継がれていると言えるのです。

 

 私たちの教会にとって忘れてならない先人である植村正久牧師も、このブラウンのもとで神学を学びました。植村正久牧師は上総国武射田村というところの出身です。今日の千葉県山武市松尾町の付近です。卒業後植村牧師は直ちにそこに向かいまして、村で唯一の旅館の二階を借り切って、障子や襖を全部取り払って大広間にして、村中の人々に呼びかけて「大伝道集会」を催したことが記録に残っています。どれほどの人たちが集まったのかよくわかりません。少なかったのか、多かったのか、それもわかりません。ただ一つ確かなことは、その日、若き植村正久牧師の説教を聴いて回心した人たちが幾人かいたことです。そしてその幾人かの青年たちが村に教会を建てました。今日でもその教会は日本基督教団九十九里教会として残っています。

 

 そして、さらに素晴らしいことには、植村牧師の故郷での伝道旅行は、この一回だけに終わりませんでした。植村牧師は、また他の同級生たちも同様なのですが、生涯の間に幾度となく、場合によってはほとんど毎年のように「郷里伝道」という名目で伝道旅行をしています。これは、たとえば京都に同志社を設立した新島襄なども同じ道を歩みました。新島襄も10年間におよぶアメリカでの苦学を終えて横浜に戻りましたとき、もうその翌日の夜には、故郷である上州(群馬県)安中に直行して、そこで何百人もの人々を集めて伝道説教を行っています。新島は約1ケ月安中に滞在するのですが、最終的に30名の青年たちが洗礼を受けました。その30名の青年たちが中心になって設立した教会が今日の日本基督教団安中教会です。私を育てて下さった森下徹造先生やハーバート・ベーケン先生も、この安中教会の系譜である旧日本組合教会に連なっている牧師先生がたです。

 

 そのようなことを思いますとき、どうもこの「郷里伝道」という伝道の姿勢のそもそもの発端は、今朝の御言葉にあると申して良いのではないでしょうか。主イエスがまず最初に郷里伝道をなさった、それならば主イエスの弟子である私たちもまた、郷里伝道を重んじなければならない、そういう精神が私たちの教会には脈々と受け継がれてきているのです。また、受け継がれなければならないのではないでしょうか。

 

 そこには、きっと様々な反応があるでしょう。植村正久牧師も「郷里伝道ほど難しきことはなし。されど郷里伝道ほど光栄あるわざもなきなり」と語っています。その場合の「郷里」とは、決して単なる「生まれ故郷」のことには留まらないでしょう。「郷里」とは生身の人間の存在する場所のことです。罪人の群れのただ中です。それならば、教会が建てられた場所はどこでも「郷里伝道」の難しさと光栄に満ちた場所であるはずです。神の言葉である福音が宣べ伝えられ、たとえどんなに数が少なくても、その福音を聴いてキリストを信じた人たちによって、真の教会が形成せられ、教会は「救いの宮」として新たに救われる人々を迎え入れて、ただ主のみを見上げつつ、主のみを唯一のかしらとして、新たな郷里伝道へと主の仕え人を派遣してゆくのです。私たちはそのような群れとして、ここに主の御旗のもと一つとなり、郷里伝道のわざに励んで参りたいと思います。祈りましょう。