説    教     イザヤ書6113節   ルカ福音書41621

               「聖霊による現臨」  ルカ福音書講解 (21)

                2020・05・31(説教20221858)

 

 「ペンテコステおめでとうございます」。あまりこのような挨拶を、皆さんはお聞きになったことはないかもしれません。「クリスマスおめでとう」または「イースターおめでとう」とはよく聞きますけれども「ペンテコステおめでとう」という文句は馴染みが薄いかもしれません。しかし、私たちの教会はペンテコステの出来事(つまり聖霊降臨)によって始まりました。いわばペンテコステは主の御身体なる聖なる公道の教会の誕生日です。まさしく教会の設立記念日なのです。それならば私たちが「ペンテコステおめでとう」と挨拶を交わすのは、むしろ当然のことであり、なすべきことなのではないでしょうか。

 

 私たちは今朝、先週に引き続いてお読みしたルカ福音書41621節の御言葉において、主イエスが故郷ナザレの会堂で安息日になさった説教の様子を知ることができます。これはとても幸いなことです。私たちは今朝の御言葉を通して、主イエスがなさった最初の説教の言葉に触れることができるからです。その日主イエスがお選びになったのは旧約聖書・イザヤ書611節以下でした。そのことを私たちは今朝のルカ伝416節以下に示されています。そこで、改めて16節以下を口語で読み返してみましょう。

 

(16)それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。(17)すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、(18)「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(19)主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。(20)イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。(21)そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

 

 これはとても臨場感溢れる御言葉です。特に私たちは20節に「会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた」とあることに注目したい。説教においては最初の言葉がとても重要なのです。それは暗闇に差しこむ一条の光にも似ているからです。まさにその光を固唾をのんで待ち望む人々の様子が20節に記されているわけです。そこで、まさにその人々に対して、つまり、ここに集う私たち一人びとりに対して、主イエスがお語りになった説教の最初の御言葉は、続く21節のとおりでした。すなわち主イエスは「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」という驚くべき言葉で説教をお始めになったのです。聴いた人々は、どんなに驚き、感動し、圧倒されたことでしょう。なぜなら、ここに主イエスは明確な“ペンテコステの恵みの到来”をお告げになったからです。

 

 牧師は、説教において「神の言葉について」の解説をするのではありません。そうではなく「神の言葉そのもの」を宣べ伝えるのが牧師の務めです。そこに説教のわざの本当の難しさがあります。それは言い換えるなら「教会における説教という出来事の主語(主体)は何か」という問題に繋がるからです。もし説教が単なる聖書の解説に過ぎないのなら、その主語は牧師自身に留まるでしょう。しかし説教が神の言葉として語られるなら、その主語(主体)はもはや牧師ではなく、語らせたもう聖霊なる神ご自身です。だから説教者はいつも聖霊なる神の導きを祈りつつ説教の準備をします。聖霊なる神の器になりきるのが真の説教者の姿なのです。

 

 主イエス・キリストは、ここで聖霊なる神の器になりきっておられます。本来ならば永遠なる神の独子として説教の唯一の主体でありたもう主イエスが、ここでは限りなく身を低くせられて聖霊なる神の器となっておられるのです。それは何のためにでしょうか?。私たち全ての者を罪の支配から贖い出して、永遠の生命をお与えになるためです。私たちを救って御国の民として下さるためです。そのためにこそ、主イエスは人となられた真の神として私たちのただ中に、いま聖霊によって現臨したもうのです。

 

 今日の説教題を「聖霊による現臨」といたしました。この「現臨」という言葉は英語で申しますなら“Real presence”です。生ける聖なる神ご自身が、私たちの永遠の救い主として「いまここに共にいて下さる」出来事です。だからキリストの「現臨」は私たちの救いそのものです。それでは、主イエスは何によって私たちのただ中に現臨したもうのでしょうか?。主イエスのお姿を肉眼において見ることはできない私たちが、主イエスにお会いするのは何によるのでしょうか?。その答えを今朝の御言葉は明確に告げているのです。それは聖霊による主イエス・キリストの現臨です。聖霊によって、主イエス・キリストは、いま私たちのただ中に現臨しておられる。リアル・プレゼンスしておいでになるのです。それが弟子たちに、そして全ての人の目に明らかにされた日、それがペンテコステです。

 

 この日、主イエスがお読みになり、説教をなさったのは旧約聖書・イザヤ書61章の御言葉でした。改めて今朝のルカ伝418節と19節をご覧下さい。「(18)「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(19)主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。先ほども申しました、ここで主イエスは「聖書についての解説」をなさったのではありません。そうではなく、主イエスはここで神の御言葉そのものを「聖霊によって現臨したもう主」として私たちに宣べ伝えて下さいました。まさに聖霊によって私たちのただ中に現臨しておられる主イエスが主語となられて、ここにいる私たち全ての者に御言葉を救いとして実現していて下さるのです。「(18)主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(19)主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

 

 今日このペンテコステ礼拝において、だからこそ、私たちは心から「ペンテコステおめでとう」と挨拶を交わすのです。多くの不安、怖れ、混乱の中にあるこの世界に、私たちの日々の生活に、主は変わらぬ救い主として、聖霊によって現臨していて下さるのです。私たちと共にいて下さるのです。それこそ「私たちが沈黙するなら石が叫び出すであろう」という思いさえあります。この日、主は私たちのただ中に現臨せられ、救いの宮としてご自身の教会をお建てになり、そこに私たちを、何の値もなきままに、ただ恵みによって招き入れ、主の復活の御身体の枝として下さるのです。これ以上に「めでたいこと」がどこにあるでしょう。実にその恵みのもとに私たちは一つとされ、共に主の御名を讃美し、聖霊によって新しくされて、世の旅路へと遣わされてゆくのです。祈りましょう。