説    教     レビ記24810節   ルカ福音書41621

              「ヨベルの年いま来れり」  ルカ福音書講解 (20)

                2020・05・24(説教20211857)

 

 旧約聖書のレビ記258節以下に「ヨベルの年の規定」が記されています。すなわち「(8)あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。(9)七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。(10)その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない…」。

 

 この「ヨベルの年」とは、どのようなものでしょうか。「ヨベル」とは元々ヘブライ語で「雄羊の角」という意味でした。この年、雄羊の角で作られた角笛をイスラエルの国中に吹き鳴らして、喜びと解放の年(ヨベルの年)の到来を全ての人々に告げ知らせたのです。英語ではジュビリー(jubilee)と申します。古代ユダヤの人々にとって一週間の終わりの7日目が安息日であるのと同じように、年にも7年目ごとに「安息年」が定められていました。

 

これはイスラエルの民が約束の地カナンに定住した年から数えられているのですが、この7年ごとの「安息年」を7回繰返しますと7×749年になります。その翌年の50年目が「ヨベルの年」と定められていたわけです。ですから「ヨベルの年」は7年目の安息年と翌年のヨベルの年と、2年続けての盛大な祭り(神聖な礼拝の喜び)の年でした。

 

 そこで、この50年目の「ヨベルの年」には、大きく分けて3のことが行われました。第一に「安息年」第二に「土地の返却」第三に「奴隷の解放」です。まず「安息年」とは「土地を休ませること」です。畑に作物を作らないのです。そのようにして7年目ごとに土地を休ませ、土地が(世界と環境が)そもそも自分たちの所有ではなく、主なる神からの賜物であることを覚えました。私は農学校の出身ですから感覚的にわかるのですが、農業をしておりますと、人間のわざというものは、あるようでいて、実は無いものなのだということがわかるのです。つまり、畑に作物を実らせて下さるのは全て主なる神の御業なのです。神からの賜物なのです。そのことを感謝を持って受け止め、神にのみ主権と感謝を帰したてまつるのです。

 

第二に「土地の返却」がなされました。これは「私有財産の公平な再分配」と言い替えることができるでしょう。人間の社会は年月を経る中でいつのまにか「持てる者と持たざる者」「富める者と貧しい者」という貧富の格差が生じてきます。資本主義経済の悪弊が拡大して行きます。これを「ヨベルの年」という社会革命を50年ごとに設けることによって解消するのです。私有財産の公平な再分配によって社会的な貧富の格差を解消し、全ての人間が神の御前に旅人であり寄留者であることを明らかにしたのです。

 

そして第三になされたのは「奴隷の解放」です。イスラエルは古代社会において奴隷制度を完全に否定していた唯一の国でした。しかしいろいろな事情によって貧しい人々がイスラエル社会の中で奴隷的身分(つまり小作農)になるということがありました。労働力だけが基本財産である(肉体だけが資本である)という社会的に極めて不安定な身分が定着しそうになるわけです。今日で申しますところの派遣労働者の問題と共通しています。その社会的な不安定な身分を50年ごとの「ヨベルの年」に全て廃止してしまうわけです。全ての派遣労働者に自分の土地と財産が分配されるわけです。そのようにして資本主義的経済の貧富の格差を解消し、イスラエル人はみな同じ神の民であり、かつては皆エジプトの奴隷に過ぎなかったことを思い起して、主なる神に栄光と讃美と感謝を帰したのです。それが「ヨベルの年」でした。

 

 さて、以上のことから「ヨベルの年」というのは、実は非常に大きな「喜びと解放の訪れ」であるということがわかるのではないでしょうか。古代イスラエルという国の凄いところは、このような根本的な社会変革のための大革命を、あらかじめ国家体制の中に50年ごとに組み込んだことです。しかもそれは単なる政治的方法論ではなく主なる神に対する感謝と喜びの義務として組み込んだのです。

 

 ヨベルの年にはイスラエル中に、ヨベル(雄羊の角)のラッパが高らかに鳴り響きました。エルサレムでも神殿でも、全ての町々、山々の頂からも、ヨベルの角笛が吹き鳴らされて「喜びと解放の訪れ」を告げ知らせました。そして身分が元通りに回復したこと、そして神の安息に共に入ったことが告げ知らされました。このヨベルの年が私たちに告げていることは、私たち全ての人間の本当の「自由と解放」がいま来ているということです。福音の告知なのです。すなわち、私たちを束縛し、隷従させていた罪の支配から、全ての人を解放し、真の自由と生命を与えて下さるために、神の御子イエス・キリストが世に来て下さったこと、そして十字架への道を歩んで下さったことです。私たち全ての者に全き安息をお与えになるために、神の御子イエス・キリストみずから十字架におかかりになり、私たちの罪を贖って下さったことです。ですから十字架と復活の主イエス・キリストによってのみ、本当の「ヨベルの年」がいま到来しているのです。

主イエス・キリストの福音そのものが、全ての人を罪の支配から解放する「ヨベルの角笛」そのものなのです。その角笛を聴いた者は、誰でも今までの罪の束縛から解放され、主イエス・キリストの尊い御血潮によって罪の負債を全て支払って戴いて、真の自由と生命を与えられて、神の民、御国の民として新しく生きる神の僕とならせて戴けるのです。それこそが私たち全ての者にとっての真の「ヨベルの年」の到来なのです。今朝の説教題を「ヨベルの年いま来れり」としました。これは数千年前の古代イスラエルの出来事ではありません。本当の「ヨベルの年」は神の御子イエス・キリストによって、いま私たちのただ中に到来しているのです。真の革命が、リアル・レボリューションが、ここに実現しているのです。主イエス・キリストの十字架による贖いによって、全ての人が罪の支配から解放されて、真の自由と解放を与えられることです。少しも私たちの力や知恵ではありません。ただ主イエス・キリストの恵みのみが、私たち全ての者にとっての真の「ヨベルの年」の到来を告げるのです。

だからこそ、主イエスはこの解放の年を預言したイザヤ書61章の御言葉を引用せられて、今日ここに「ヨベルの年」が実現した、成就したと宣言なさいました。すなわちルカ伝418節以下です。「(18)主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(19)主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。(20)イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。(21)そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた」。

神の子羊イエス・キリストこそ、真の安息を、本当の「ヨベルの年」を私たち全ての者に与えて下さるかたです。主イエス・キリストの来臨そのものが真の「ヨベルの年」の到来なのです。主イエスこそ「安息日の主」であられるからです。誰でも主イエス・キリストを信じて生きるなら、その人には本当の「ヨベルの年」の自由と解放の喜びが与えられるのです。主イエス・キリスト以外に、私たちの人生をリセットして下さり、新しい人生へと再出発させてくれるかたはいません。誰でも主を信じて主と共に歩むなら、その人は紛れもなく「ヨベルの年」の祝福と自由にあずかることができるのです。

どうか私たちは最後にもう一度、今朝のルカ伝421節を思い起こし、心に留めたいと思います。「(21) そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた」。いま主はここに現臨しておられるのです。そして「ヨベルの年」を告げておられるのです。私たちはいま共に、その開放と自由の音信のただなかに生きる僕たちとされているのです。祈りましょう。