説    教      申命記76節   ルカ福音書41416

                「聖霊に満たされて」  ルカ福音書講解 (19)

                2020・05・17(説教20201856)

 

今朝のルカ伝414節以下をもういちど、口語訳でお読みしましょう。「(14)それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。(15)イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。(16)それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」。

 

 主イエスはユダの荒野において、悪魔による3度の試みを全て退けたまいました。そのとき主イエスに14節が示すように「御霊の(聖霊の)力」が「満ちあふれた」のです。主イエスは永遠なる神の御子ですから、聖霊をお受けになるのはある意味で当然なのです。しかし主イエスは、神でありながら人として世にお生まれになりました。それならば、主イエスは私たちが「聖霊の力に満ちあふれる」ための道筋を「真の神、真の人」としてお示しになったのです。それは「悪魔の誘惑を退ける」ことです。

 

それはつまり、ただ主なる神を信じ、主なる神の御言葉に聴き従う、キリスト者の生涯を歩むことです。礼拝を中心としたキリスト者の人生、主の御身体なる教会に結ばれた信仰者の生涯を歩むとき、聖霊なる神は私たちにも豊かに「満ちあふれて」下さるのです。それは、どういうことでしょうか?。それは十字架と復活の主イエス・キリストに贖われた者として生きることです。決して私たちの力や能力ではありません。ただキリストの贖いの御力による人生を歩むことです。キリストの本当の弟子になることです。そのとき、聖霊なる神は、私たちにも豊かに「満ちあふれて」下さるのです。

 

 さて「御霊の力に満ちあふれて」故郷ガリラヤへ帰られた主イエスは、そこでどのようなことをなさったのでしょうか?。改めて14節を見ますと、このように記されています。(14)それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった」。荒野で悪魔の誘惑を見事に退けたもうた主イエスの噂は、故郷ガリラヤの人々にたちまちのうちに広まっただけではなく、その噂はガリラヤからかなり遠く離れた地方にまで、あたかも燎原の火のごとくに広まっていったことがわかるのです。

 

 私たち人間は、いつも時代にも「噂話」が好きなのです。噂という漢字は「口偏に尊ぶ」と書きますけれども、それは言い換えるなら「言葉が独り歩きするほどに口先だけが尊ばれる」という意味なのです。ですからそれは、ただ言葉に尾鰭をつけたり、褒めたり批判したり、持ち上げたり貶めたり、ようするに自分中心の印象操作を行っているだけにすぎません。「噂話」の主体はいつも自分であり、その言葉には責任が伴いませんから、それを伝える人は要するに「面白がって誰彼となく話しまくる」だけのことなのです。

 

 これもまた、私たち人間の罪の姿を現しているのではないでしょうか。口先の出まかせだけの言葉を尊ぶことはあっても、私たちの存在の根源であられる真の神を尊ぶことはないのが私たちなのではないでしょうか。自己中心の思いで他人の批判や誹謗中傷をすることに快感を覚えても、真の神の御言葉に聴き従うことは少しも考えようともしない私たちではないでしょうか。それならば、まさにそのような私たち人間の罪の結果がどす黒く渦巻く現実の世界のただ中に、神の永遠の御子なる主イエス・キリストは来て下さいました。ユダの荒野で悪魔の誘惑を退けたもうた主イエスは、悪魔の誘惑に屈するよりほかにない無力な私たちのただ中に、絶大な救いの恵みを持って来臨して下さるかたなのです。そうです、いま主イエス・キリストは、聖霊に満たされて、ここに臨在していて下さいます。御言葉と聖霊によって、私たちのただ中に、私たちの贖い主として、共にいて下さる救い主なのです。

 

 聖霊に満たされた主イエスは、故郷のガリラヤでまず何をなさったのでしょうか?。今朝の御言葉の15節と16節にそれがはっきりと示されています。「(15)イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。(16)それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」。主イエスは礼拝のために、安息日に会堂にお入りになられたのです。しかもそこで集まった全ての人々を「教え」たまい「みんなの者から尊敬をお受けになった」のです。これはどういうことかと言いますと、神の御子イエス・キリストみずから、安息日の会堂において、教会において、御言葉を宣べ伝えられたことです。永遠なる神の御言葉を人々にお教えになったことです。

 

 そのハイライトは16節にあるように、生まれ故郷のナザレの町の会堂で礼拝を献げられたことでした。そしてそのナザレの会堂において主イエスは「安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」のです。ここに「いつものように」とありますのは、主イエスが幼い頃からずっとこのナザレの会堂で礼拝を献げておられた事実を示しています。その懐かしい会堂で、しかも集まった人々はみな顔見知りの町の人々である中で、主イエスは「聖書を朗読しようとして立たれた」のでした。

 

 これは、どういうことかと言いますと、古代イスラエル、ユダヤの伝統においては、成人した男性は「聖書を朗読」できることになっていました。旧約聖書の巻物(スクロール)を会堂司から手渡されて、それを集まった全ての人々の前で、説教壇から朗読することです。だから朗読することと説教することは同じ一人の人が行いました。そしてこの日は主イエスの最初の説教の日だったわけです。もちろんそのことは、町中の人々にあらかじめ知らされていたものと思われます。

 

 そこで、今朝はそこまでお読みしませんでしたけれども、主イエスはこの日、旧約聖書のイザヤ書61章をお読みになり、そして説教の言葉を「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」という言葉でお始めになったのです。この事を私たちの心にしっかりと留めたいと思います。主イエス・キリストが私たちのただ中に現臨しておられる、ということは、聖書の御言葉が、神の言葉が、私たちがそれを耳にしたいまこの時に「成就している」ことなのです。すでに私たちは永遠なる神の御国の一員とされているではないか。十字架と復活の主によって、贖われ、救いを戴き、主の御身体なる教会に結ばれて、主の御身体という揺るぎない恵みの絆を与えられて、生きる僕たちとされているではないか。

 

まさにそような、現臨したもう主イエス・キリストの恵みにおいてこそ、私たちはいまこの礼拝を共に献げ、キリストに贖われたる僕として、新しい一週間の歩みを始める喜びを与えられているではないか。主がまず聖霊に満たされて私たちのただ中に現臨して下さったことによって、ここに集う私たちにも聖霊に豊かに満たされて生きる僕たちとされているではないか。まさにこの恵みにおいてこそ、悪魔のあらゆる誘惑に永遠に打ち勝って下さった主が、私たちと共にいて下さるではないか。私たちに与えられた救いの御業は、永遠に確かな、喜びに満ちたものではないか。まことに、私たちはいまここに、聖霊によりて現臨したもう主と共に歩む僕たちとされているのです。祈りましょう。