説    教      申命記616節   ルカ福音書4913

                「究極的問答」  ルカ福音書講解 (18)

                2020・05・10(説教20191855)

 

 今朝のルカ伝4913節の御言葉を、改めてもういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(9)それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。(10)『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、(11)また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。(12)イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。(13)悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」。

 

 悪魔は主イエスへの誘惑が2度も失敗したのを見て、3度目に最終的な難問をぶつけてくるのです。これは主イエスに対する悪魔の「究極的問答」でした。どういうことかと言いますと、さすがは悪魔でして、頭はずば抜けて良いですから、最初の2つの誘惑とは全く別の方向から主イエスを陥れようとするのです。なわち、第一の誘惑は「石ころをパンに変えてみなさい」というものであり、第二の誘惑は「悪魔を神として拝め」というものでした。この最初の2つの誘惑は、しかし他の人の目には直接には見えないものです。たとえユダヤ中の石ころがパンになったとしても、人々はそれが誰によってそうなったかを知らないわけですし、また、主イエスが悪魔を神として拝んだとしても、外見的には人々の目につく事柄ではないわけです。

 

 しかし、今朝の3度目の誘惑は違いました。悪魔は主イエスをエルサレムの神殿の屋上に、つまり「宮の頂上に」連れて行って言うのです。囁いたのです。「そら、下を見なさい。あんなに大勢の群衆があなたのことを見ているでしょう?。いまここから下に飛び降りてごらんなさい。そうしたら天使がすぐにやってきて、あなたを静かに地面に下ろすに違いない。そうしたら、それを見たあの大勢の群衆は、みなこぞってあなたを神の子キリストだと言って崇めるに違いありません」。

 

 ここで悪魔の狡猾なところは、こんどは悪魔みずから聖書の御言葉を引用していることです。すなわち「『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』」この御言葉は旧約聖書の詩篇9110節以下の引用です。すなわち「(10)災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。(11)これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。(12)彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする」。

 

 つまり、悪魔はこのように主イエスに言ったわけです。「どうですか?。聖書にちゃんと書いてあるではありませんか?。そして、あなたは神の子なのでしょう?。それならあなたは聖書の言葉をよもや疑うことなどありえませんよね?。それならいますぐにここから下に飛び降りてごらんなさい。あなたみずから聖書の御言葉が真実であることを、下にいる群衆に証明してみせて下さい。そうしたら、あの群衆は、否、世界中の全ての人々はアッと驚き、みなこぞってあなを『神の子・キリスト』でると信じるに違いありません。

 

 これは、何という巧妙かつ大きな誘惑でしょうか。私は、少し以前のことですが、ある病気で入院していたかたから「先生どうか私の病気が治るようにお祈りして下さい」と言われたことがあります。もちろん、私はそのかたからそのようなことを言われなくてもいつも祈りに覚えておりましたから、そのかたに「はい、いつもお祈りしていますよ」と申し上げました。そのようなことがあって数カ月経って、不思議にその方の病気は全快したのです。そのとき、そのかたが私に言われますには「私の病気が治ったのは先生のお祈りのお陰です。本当にありがとうございます」と言われたのです。その時の私は、正直に申しますが、あまり悪い気持はしませんでした。しかし同時にすぐ、そこに大きな誘惑があると思いました。自分が神格化される、とはもちろん思いませんけれども、少なくとも、私の力がそのかたの病気を「治した」のだと思われる危険を感じたのです。

 

 このような誘惑は、実は私たちにとって「究極的問答」とは言えないでしょうか?。つまり、私たちが自分を「主」として生きるのか、それとも神のみを唯一のまことの「主」として生きるのか、この人生における最も大切な究極の二者択一に関わる問題だからです。つまりそれは信仰の問題なのです。もちろん悪魔の思惑は、悪魔の目的は、私たちをして自分を人生の「主」とならせることにあります。もっと言うなら、私たちが自分を「主」とすることによって、悪魔を神として崇めるようにさせることが悪魔の目的です。私たちから信仰を失わせることです。だから罪と自己神格化・自己絶対化は深く結びついています。信仰という字は「信じて仰ぐ」と書きます。私たちが仰ぐべき唯一のかたは神です。これを見失わせて自分を主とさせようとするのが悪魔の「究極的問答」なのです。

 

 この「究極的問答」に対して、主イエスはどのようにお答えになられたでしょうか?。今朝の12節を改めてご覧ください。「(12)イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。私たちは自分を「主」として生きるとき、実はいつでも神を試みているのです。試みるとは、テストをすることです。あなたは本当の神様なのか?それを私にきちんと示して見せろと言うことです。その時、私たちは実は自分を神の立場に置いています。自分が主であって、神は自分の思い通りに動くものだ、つまり主従の関係が逆転しているのです。

 

 このことを宗教改革者カルヴァンは「人間がさかさまになって生きている」と言いました。逆立ちをしたことがあるかたはわかると思いますが、あれは苦しいものです。重力に逆らって倒立しているわけですから、足が上で頭が下になるわけですから、全身の血液が逆流するような異常な感じになります。いわば人間はそのような異常な態勢で生き続けている、それにもかかわらず、自分が倒錯した存在だと認識すらしていない、そこに人間存在の根本的な矛盾があると言えるでしょう。

 

 主イエスは言われるのです。私はそのような、全ての人たちの悲惨を一身に身に担い、救いと解放を全ての人に与えるために世に来たのだと。その時、最も大切な唯一のことは、自分が主となる罪をかなぐり捨てて、それを離れて、まことの唯一の神のみを「主」とする人生の基本姿勢にもあるべき態勢に、立ち帰ることだ。そのためにこそ、主イエスは私たちの罪を担って十字架への道を歩みたもうのです。かつてモーセはマッサで神を試みました。自分がこの杖でこの岩を3度叩けば水が出るとイスラエルの民に宣言し、言葉のとおりになりました。しかしモーセはそこで罪を犯したのです。それは自分が主になることでした。神を主とはせず、神を自分のために試したことでした。

 

 モーセが為すべきことは何だったのでしょうか?。それは水が無いと言って半狂乱になり、理性と落着きを、何よりも信仰を失ったイスラエルの人々に、神を信頼して祈りつつ待つべきことを教えることでした。自分が解決するのではない。自分が救い主になるのではない、主なる神が救い主でありたまい、必ず私たちを救って生命を与えて下さることを堅く信じ、人々と共に祈ることでした。

 

 主イエスは宣言して下さいます。「『主なるあなたの神を試みてはならない』」と!。この原文のヘブライ語の意味は「あなたはもう、自分を主とする必要がない、それほどまでに罪を贖われた真の自由に歩む“神の僕”とされている。だから主なる神を試みることはしなくてすむ。」という意味です。主が、私たちの測り知れぬ罪を贖って下さったからです。十字架と復活の主が、私たちの唯一の永遠の「主」であられるからです。その救いの出来事は、聖霊によっていまここにに現臨して下さる主イエス・キリストが、ご自身の御身体なる教会を通して、御言葉によって、ここに集う私たち全てに与えていて下さるものなのです。祈りましょう。