説    教      申命記1020節   ルカ福音書458

                「真の礼拝と奉仕」 ルカ福音書講解 (17)

                2020・05・03(説教20181854)

 

 旧約聖書の申命記1020節に「(20)あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない」とございます。私たちはこれを読んで誰もが「おや?」と疑問に思わなかったでしょうか。主イエスは弟子たちやパリサイ人らに対して「あなたがたは神の御名によって誓ってはならない」と言われたからです。しかしそれは「あなたがたは安易に神の御名を用いてはならない」という意味であって、今朝の申命記1020節の御言葉と少しも矛盾することではありません。

 

 私たちは今朝の御言葉が教えているように「(20)あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない」のです。それはいったい何を示しているのでしょうか?。それこそ「真の礼拝と奉仕」の大切さです。真の礼拝を献げることは、実は私たちの人生にとって、最も大きな問題なのです。しかしそのことを、誰も真面目に知ろうとさえしないのではないでしょうか?。ある意味で私たち人間にとって、もっとも軽んじられ蔑ろにされていることが「真の礼拝と奉仕」なのではないかと思うのです。まさにこの、人間にとって最も大切な問題においてこそ、悪魔は主イエスに巧妙かつ執拗に挑みかかって来るのです。

 

改めて、今朝のルカ福音書45節以下をお読みいたしましょう。「(5)それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて (6)言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。(7)それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。(8)イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

 

 悪魔は「全ての人間をパンの前に跪かせよう」という最初の狙いが挫折したので、今度は方法を変えて主イエスに挑みかかります。すなわち、悪魔は主イエスをわざわざ「高い所」に連れて行くのです。ツアーガイドになるわけです。「さあ、私はあなたをこんなに素晴らしい「高い所」に案内しましたよ。ここまで来るのはとても大変でした。しかし私はあなたのために、あなたを思って、あなたを愛しているから、わざわざこんな不便な場所までお連れしたのです。あなたはまさか、あなたのためにこんなに苦労した私の好意を、無下に退けたりはなさいませんよね?」これが悪魔の策略でした。

 

 私たち人間は、特に日本人は、こういうことに弱いのです。物事の理非曲直はともかくとして、目の前で汗をかき骨折って奉仕をしてくれている人の好意を、労苦を、無碍に退けたり批判したりは「できない」と思うのが人情なのです。悪魔はまさに、そのような私たちの義理人情に付けこんで、私たちを誘惑しようとするのです。自分の足元に跪かせようとするのです。

 

 事実、悪魔は徐々にその正体を現してゆきます。今朝の御言葉の6節後半から7節をご覧ください。「(6)…これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。(7)それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。かつてナチスの独裁者ヒトラーはまさにこの契約を悪魔と結んだのではないでしょうか。悪魔を拝むなら、悪魔にひれ伏すなら、悪魔を神とするなら、全世界を支配する力と権威を手に入れることができるのです。悪魔の誘惑というのは、実はそれほどまでに恐ろしいのです。それは世界と人類と歴史を狂わせ、破滅させる力を持つのです。

 

 私たちの主イエス・キリストのみが、この恐ろしい、巧妙かつ執拗な悪魔の誘惑に打ち勝って下さいます。主は悪魔に応えて言われました。今朝の御言葉の8節です。「(8)イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。ここで主イエスは、最初にお読みした申命記1020節の御言葉を引用なさって悪魔の誘惑を退けられたのです。しかし私たちには、なかなかこのことがわからないのです。私たちはどちらかと言うと、神の側にではなく、悪魔の側に立っている存在なのです。悪魔に対して親和性を持つ存在、それが人間なのです。神の御言葉には容易に耳を傾けませんが、悪魔の言葉には簡単に聴き従う傾向を持つのです。その最大の現われが、礼拝と奉仕に対する私たちの姿勢ではないでしょうか。私たちは本当の礼拝と奉仕を献げているでしょうか?。

 

 カール・バルトというスイス改革派教会の神学者が、第二次世界大戦の直後に、スコットランドのアバディーン大学でスコットランド信条の連続公開講義を行いました。神学部の学生たちはもちろんのこと、アバディーンの市民たちもこぞって聴きに来たので、礼拝堂の外にまで人が溢れたと記録にあります。このバルトの講義録はのちに「神の認識と神への奉仕」という題でドイツ語と英語で出版されました。その中でバルトは「真の礼拝と奉仕は、いつの時代にも最も蔑ろにされてきた」と語っています。ドイツ語の話で恐縮ですが、ドイツ語で礼拝のことを“ゴッテスディーンスト=Gottesdienst”と言うのです。この言葉は2つの意味を持っています。第一に、私たちが神に対して献げる奉仕という意味です。

 

 この第一の意味は、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。特にいまは新型コロナウイルスの感染予防ために、たとえば神奈川教区の多くの教会で礼拝そのものが休止になっています。そうした中で、私たち葉山教会はとにかく主日礼拝だけは厳守してゆこう、この決意のもと、私たちはある意味で意を決してここに集まっているのです。だから「これこそ神への奉仕のわざだ」と言われると実感があるのです。そうだ、私たちは困難の中でこそ礼拝を厳守してゆく群れなのだ。とにかく主日礼拝だけは死守してゆくのが私たち葉山教会の姿勢なのだと。

 

 しかし、ゴッテスディーンストの意味は、それだけではありません。さらに大切な第二の意味があるのです。それは「神が私たちに対してなして下さった奉仕」という意味です。そしてこの「奉仕」とは「御業」という意味です。主なる神が私たちに対して行って下さった御業とは何でしょうか?。それこそ御子イエス・キリストの十字架と復活と昇天という「御業」です。私たち罪人のかしらなる存在を救うために、神が歴史の中に現わして下さった救いの御業のことなのです。

 

 真の神を礼拝すること、ただそのことだけが、私たちに本当の自由を与えるのです。そして真の礼拝こそ、本当の意味で、神に対する奉仕のわざなのです。教会の奉仕は全てこの真の礼拝に繋がるものです。真の礼拝に繋がらない奉仕は本当の奉仕とは言えないのです。それは、主イエス・キリストご自身が、私たちの救いのために、十字架におかかりになったことが、真の礼拝の基礎だからです。

 

 よく、ときどき、しばしば、こういう言葉を耳にします。当然のように言うのです。「先生、私は次の日曜日、友人に〇〇に誘われているので、礼拝に出席できません」。はい、もちろん、私たちには人間関係は大切です。しかし思ってご覧下さいませ。誰が私たちの死の彼方にまで、私たちと共にいて下さるのですか?。誰が私たちの測り知れぬ罪を、十字架で贖って下さったのですか?。誰が私たちのために、ご自身の生命さえもささげて下さったのですか?。それは「友人の誰々さん」ではありません。十字架と復活の主イエス・キリストのみです。そのキリストが、私たちを待っていて下さるのです。そのキリストが、ご自身の全てを献げて礼拝の、教会の、救いの、礎となって下さったのです。

 

 私たちは礼拝を何にもまして大切にします。それと同様に、真の奉仕のわざに生き続ける群れでありたいと思います。この困難な時代においてこそ、私たちの信仰が、真の礼拝と奉仕が、より大切なのです。祈りましょう。