説    教    申命記83節   ルカ福音書434

          「人はパンのみにて生くるにあらず」 ルカ福音書講解 (16)

                2020・04・26(説教20171853)

 

 今朝、私たちに与えられた福音の御言葉は次の通りです。「(3)そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。(4)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。聖霊によって荒野に「引き回され」た主イエスは、4040夜の断食の後に「空腹に」なられました。その空腹の主イエスに、悪魔が「待ってました」とばかりに挑みかかるのです。「(3)そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」と。これが最初の誘惑でした。悪魔による最初の試みであります。

 

 人は誰でも、肉体を養う食物を必要としています。いわゆる「食の問題」は人間にとってとても重要なものです。肉体の食物を無視して人間の生活は成り立ちえません。ある意味において、私たち人間の一生は「食べるために生きている」と申しても過言ではないのです。それは逆に言うなら「生きるために食べている」ということになります。いずれにしても、私たちの肉体的な生命は「食べること」に依存しているのです。「食の問題」は私たちの生存に関わる最も重要な問題だと言えるのです。

 

 それならば、まさにその重要問題においてこそ、悪魔は私たちを誘惑するのではないでしょうか?。しかも相手は4040夜の断食の後に「空腹になられた」主イエスなのです。悪魔はこの主イエスに挑みかかって言うのです。「どうだ?いかにお前が神の子であってもパンがなくては生きてはゆけまい?」「お前はいま空腹で死にそうではないか。それならばお前の生命と存在はパンにかかっているのだ」「だからお前の存在とパンは同一の価値なのだ。つまり、人間の救いはパンの有る無しにかかっているのだ」。これはいわゆる「悪魔の証明」(probatio diabolica)というものです。古代ローマ法における所有権の問題です。それはすなわち、人間の存在の根拠は何かという問題です。

 

 ここで悪魔は「人間の存在はパン(つまり食物)にかかっているのだから、人間存在とはすなわちパンに等しいものにすぎない」と言い切るのです。なぜならば、人間は誰でもパン(食物)が無ければ生きてゆけないからだと悪魔は言うのです。これが「悪魔の証明」の恐ろしさです。誰もが見て納得することに人間の存在根拠枷あるのだとすることです。いまこの現在、全世界を不安と恐怖に陥れている新型コロナウイルスについても全く同じことが言えます。「新型コロナウイルスが世界を支配している本当の“主”なのだ」というのが「悪魔の証明」です。この場合、論理の飛躍は問題にはなりません。なぜなら、誰もがそれをいちばん怖れていることは明白だからです。それならば「人間は新型コロナウイルスの奴隷である」と結論づけるのが「悪魔の証明」なのです。さらに言うなら「人間の存在価値は新型コロナウイルスと同じである」と結論づけるのが「悪魔の証明」の恐ろしさなのです。

 

 まさにこの巧妙な「悪魔の証明」に対して、主イエスは決然としてお答えになるのです。それが今朝の44節の御言葉です。「(4)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。主がお答えになったこの御言葉は旧約聖書・申命記83節に基づいています。そこを口語訳で読みますとこのような御言葉です。「(3)それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。これを見ておわかりになるように、この申命記83節は、モーセに率いられて出エジプトをしたイスラエルの人々が、荒野における40年間の旅路のあいだ神の御手からマナを与えられて養われたことを示しています。そしてここには同時に「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ」と記されているのです。

 

 これはどういうことかと申しますと、主なる神は愛するイスラエルの人々が「マナ」を真剣に求めるようになるために、彼らを敢えて「苦しめ…飢えさせられた」というのです。パンが無ければ人間の存在理由が無いという「悪魔の証明」に対して、聖書は、イスラエルの民は、信仰に基づいて「それは違う」と宣言したわけです。今のこの苦しみは、不自由は、不安や苛立ちの日々は、主なる神が私たちに「マナ」すなわち「日用の糧」を与えたもうたしかな徴なのだ。そのようにイスラエルの人々は信じ、告白し、そこにキリストのみを唯一のかしらとする聖なる公同の使徒的なる教会が建てられたのでした。

 

 かえりみて、いまの私たちも、この全世界も、同じ状況に置かれているのではないでしょうか。「悪魔の証明」は至る所に満ち溢れ、私たちを荒野で誘惑しようとしています。「お前の存在など所詮はパンと同じ価値しかないのだ」と思いこませようとしているのです。「しょせん人間の存在理由は新型コロナウイルスによって虚しくなるものでしかないのだ」と思いこませようとしているのです。本当にそうなのでしょうか?。私たちは悪魔の誘惑に屈するほかない存在なのでしょうか?。

 

 答えはもちろん「否」です。なによりも、主イエスがはっきりと宣言して下さいました。『人はパンだけで生きるものではない』と!。主イエスは「人にはパンなど必要ない=肉体を養う食べ物なんか要らない」とおっしゃっているのではありません。そうではなく、パンよりももっと遥かに大切な唯一の食物がある。その唯一の食物こそが(日用の糧こそが)人間を真に生かしめる本当の糧なのだとおっしゃっておられるのです。

 

なによりも、私たちは「主の祈り」を献げるときどのように、何と言って祈りますか?。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るのではないでしょうか。この「日用の糧」と訳された元々のギリシヤ語はエピウーシオスという言葉なのですが、これは新約聖書の中に2箇所しか出てこない特別な言葉です。これは「かけがえのない糧」「他に比較するもののない尊い唯一の食物」という意味です。それは何かと言いますと「神の言葉」のことなのです。だからこそ今朝の44節において主イエスは悪魔にはっきりとお答えになったのです。「(4)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。

 

 主イエスは逆に悪魔を試みておられます。お前は続く御言葉を知っているか?。『人はパンだけで生きるものではない』とある申命記83節の続きに何と書いてあるか知っているのか?。もちろん悪魔は答えられません。だから主イエスは敢えてお示しになります。申命記83節にはこうあるのです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」。

 

 いま、ここに集う私たち一人びとりに、この祝福と自由の言葉が宣べ伝えられています。私たちは「悪魔の証明」に屈する必要などない。なぜなら、私たちは生きるにも死ぬにも主なる神の愛したもうかけがえのない「汝」だからです。私たちの存在理由と救いはただ主なる神にあるのです。そしていま私たちははっきりと学びましょう。神の言葉とは何ですか?。それは私たちのために十字架におかかりになり、死んで復活して下さった主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストご自身が生ける神の御言葉そのものでありたもうのです。

 

 それならば、いま、私たちは十字架と復活の主イエス・キリストから「日用の糧」を豊かに戴いているのです。それこそ「かけがえのない糧」「他に比較するもののない尊い唯一の食物」として、私たちは十字架と復活の主イエス・キリストを戴いているのです。それが「神の言葉」すなわち「生命のパン」なのです。このことを心にしっかりと留めて、新しい一週間、私たちは希望と感謝をもって信仰の歩みを続けて参りたいと思います。祈りましょう。