説    教      ホセア書214節  ルカ福音書412

                「聖霊と荒野」 ルカ福音書講解 (15)

                2020・04・19(説教20161852日)

 

 (1)さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、(2)荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた」。これが今朝、私たちに与えられた福音の御言葉です。ここには、まことにすさまじい事柄が記されています。主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあと、ただちに「荒野」に行かれました。ただ荒野に行かれたというだけではない、今朝の1節にははっきりと「四十日のあいだ御霊にひきまわされて」と記されています。

 

主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになったとき、聖霊が父なる神のみもとから「鳩のような姿で」主イエスに降りました。しかしその聖霊は、すぐに主イエスを「荒野」へと導き、そこで「四十日のあいだ…(主イエスを)ひきまわ」したのです。

 

 これは、どういうことなのでしょうか?。私たちは普段漠然と、聖霊は私たちを祝福して下さるかただと思っています。聖霊を受けること、聖霊に導かれること、今朝の御言葉で言いますなら、聖霊によって「引き回されること」は、むしろ幸いなことだと私たちは思っています。もちろんそれは間違いではありません。聖霊は私たちを祝福し、救いへと導いて下さるかたです。

 

 しかし、主イエスの場合は違いました。主イエスは聖霊によって「荒野」へと導かれ、そこで「四十日のあいだ御霊にひきまわされて」断食をなさったのです。四十日のあいだ主イエスは何もお食べにならなかった。

 

 室町時代に夢窓疎石という禅の高僧がいました。この人は若い頃に大変厳しい修行をしたことで知られています。上総国能実の山の一角に洞窟があるのですが、そこに籠って只管打坐・座禅三昧の日々を過ごしました。現在でもその洞窟は当時のままで残っています。その夢窓疎石の噂が当時の後花園天皇の耳に入りました。後花園天皇は勅使を遣わして夢窓疎石に「京都に来て国家鎮守のために寺院を建立してほしい」と懇願せられたのですが、夢窓疎石は頑に動こうとしなかった。そこで天皇は5度目の勅使に宸筆の手紙を持たせました。そこには「この手紙を読んでもあなたが京都に来ないのなら、私が直接そこに行って直談判をする」と書いてあった。そこでようやく夢窓疎石は京都に行きまして、後嵯峨天皇の勅命により嵯峨野に天龍寺を開山したわけです。

 

 主イエスの「荒野」での修業は、それと同じようなことなのでしょうか?。世の中において優れた働きをする者が、若い時に人目に触れない場所で厳しい修行の日々を過ごした、ということなのでしょうか?。それとは大きく違っていると思います。本質的な違いがあるのです。

 

 なによりも、主イエスが「荒野」に行きたもうたのは「聖霊によって引き回されたから」でした。この「引き回す」という元々のギリシヤ語は「相手の意思の有る無しに関わらずある場所へと導く」という意味です。つまり聖霊は私たちの意思や計画や思いを超えて、私たちを「ある場所へと導く」おかたであることがここにはっきりと示されているのです。

 

 顧みて、私たちは、そして全世界の人々が、そして全ての教会が、いまとても厳しい状況の中に置かれています。それは「荒野」と言っても過言ではありますまい。私たちが属する東海連合長老会でも、当分の間は全ての諸集会と牧師会が休止になりました。6月に岡山で予定されていた全国会議も中止になりました。夏に予定されていた全国の青年修養会も、改革長老教会関係の諸集会もすべて中止になりました。これが「荒野」でなくして何が荒野なのかと思われる状況が続いていて、しかもそれがいつ終息するのかわからない不安と苛立ちが社会全体を覆っています。ヨーロッパの教会ではほとんど全ての教会で礼拝やミサが中止になっています。「日本の教会は良い、礼拝が守れるのだから」とも言われました。しかし礼拝に出席できる人の数は減りました。今日予定されていた教会総会も中止のやむなきに至ったのです。

 

 しかし、そのような厳しい状況の中にあるからこそ、今朝のこの御言葉に私たちは深く心を留めたい。聖霊なる神は、主イエスに対してそうであられたのと同じように、私たちをも「荒野」に導きたもうことがあるのです。聖霊は私たちを「荒野」に引き回したもうことがあるのです。神は全世界を救う大きなご計画、私たちに対する遠大なる救いの御意志をもって、私たちを敢えてこの「荒野」の状況へと「引き回し」たもうておられるのではないでしょうか。だから今朝の説教題を「聖霊と荒野」といたしました。この2つは反対語ではないのです。神は聖霊によって、聖霊を通して、まさに「荒野」のただ中でこそ私たちと共にいて下さるかたなのです。

 

 その「荒野」で主イエスがなさったことは、何だったでしょうか?。今朝の御言葉である42節を改めてご覧ください。「主イエスは…(2)荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた」と書いてあるのです。主イエスは断食をなさったのです。それはどういうことなのでしょうか?。それは「神の言葉だけを唯一の食物として生きられた」ということなのです。もちろん、私たちは毎日の肉体への食物が大事です。食生活はとても大切なものです。しかし、私たちはそれと同じように、否、それ以上に「神の御言葉を食べる生活」をしているでしょうか?。

 

主イエスがなさった「断食」とは、自分に対する引き算(マイナス)ではありません。むしろそれは大きな足し算(プラス)を設けることでした。その大きな足し算こそ、生ける神の御言葉のみを唯一の本当の食物となさることです。それはバルトの言葉で言うなら「罪という名の根源的なマイナスを持つ私たちの全存在が、神の言葉という永遠かつ絶対的なプラスに贖われ、呑みこまれること」です。そしてその「神の言葉」こそ十字架と復活の主イエス・キリストなのです。

 

 先週、私たちの教会によく出席なさる佐藤千郎先生と、私は礼拝後にこのような話をしました。佐藤先生が言われたことなのですが、今度のこのコロナウイルス騒動は、日本の教会の歴史にとってむしろプラスに働くかもしれないと佐藤先生は言われるのです。私は少し驚いて「それはどうしてですか?」と訊きますと、佐藤先生はこう言われました。「教会が教会本来の姿に戻るための良い機会だと私は思います」。そこで私は佐藤先生に「私も心から同意します」と申し上げたのです。

 

 日本基督教団の教会、日本基督教団だけではありませんが、日本の教会はいつのまにかイベントセンター的な存在になってしまったのではないか。私たち葉山教会はそうではありませんが、神奈川教区の約100ある教会のほとんどがイベントセンター化していると言って過言ではありません。そうした中にありまして、礼拝だけ、その礼拝も私たち皆が意を決して献げる。そして礼拝以外の諸集会、諸行事、諸イベント、それらはみんな中止、そのことは私は、日本の教会にとって主なる神が聖霊によって与えて下さった「荒野」であるように思えるのです。

 

 私たちの人生もそうです。時に私たちは聖霊なる神によって「荒野」を引き回される経験をするかもしれない。しかしそれは、神が私たちの人生に素晴らしいことをなさろうとしておられる徴なのです。この世界に救いの完成を与えたもうことの確かな徴なのです。そして主は再び来たりたまい、私たち全ての者の人生をその喜びと幸いに満たして下さるのです。祈りましょう。