説    教      出エジプト記1413節  ローマ書615

                「復活の喜び」 イースター礼拝

                2020・04・12(説教20151851)

 

 イースターおめでとうございます。私たちはいま非常に厳しい試練に晒された世界の中にいます。全世界の人々が等しく同じ苦しみと不自由さを経験しています。苛立ちや悲しみ、怒りと不安の現実が私たちを取り巻いています。そのようないわば「異常な現実」の中にあって、なお私たちは「イースターおめでとうございます」と祝福と喜びの挨拶を互いに交し合うのです。否、それどころか、私たちは、そのような「異常な現実」のただ中にいるからこそ、イースターの喜びをいっそう強くたしかに受け止めます。そして全ての人々にキリストの復活を宣べ伝えます。それは、どうしてなのでしょうか?

 

 その最も確かな答えが示されているのが、今朝拝読したローマ書61節以下の御言葉です。そこを改めて口語訳でお読みしましょう。「(1)では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。(2)断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。(3)それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(4)すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(5)もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。

 

 ここに告げられていることは、使徒パウロによる「復活の喜び」の宣言です。当時のローマの教会の中に「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべき」であるという倒錯した考えかたをする人たちがいました。これは要するに「神は罪人を愛して下さるのだから、私たちは罪を犯し続けようではないか」という考えかたです。つまり人間の自然性を救いの条件と考える人たちです。それに対して使徒パウロは2節に「断じてそうではない」と厳しく語っています。「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」と言うのです。自然のままの人間は滅びるべき罪人であるに過ぎないのです。だから人間の中に人間の救いはありません。世界の中に世界の救いは無く、歴史の中に歴史の救いは無いのです。私たちと世界と歴史が救われるためには超自然的な恵みが必要なのです。それが主イエス・キリストの復活の出来事です。

 

 だからパウロは続く3節以下にこのように語るのです。「(3)それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(4)すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。ここでパウロが語っている「それとも、あなたがたは知らないのか」という表現は、例えて言うなら「こんなにも喜ばしい音信なのに、どうしてあなたたちはこれを知らないままでいるのか?」という驚きに満ちた言い回しです。ここにはまさに私たちの「異常な現実」のただ中に響き渡る「復活の喜び」が宣べ伝えられているのです。

 

 あなたたちは「洗礼の恵み」を主の御手から、聖霊によって与えられた人たちではないか。主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、キリストの復活の生命に「あずかる」者たちとされた人々ではないか。そのあなたたちが、どうしてその大きな喜びを知らない人たちのように生きていて良いだろうか。この世界の中には世界の救いは無い。この世界の救いは世界をお造りになった神にあるのだ。あなたたちの自然性の中にあなたたちの救いは無い。あなたたちの救いは贖い主なる主にあるのだ。パウロが語っているのはそういうことです。クリスマスの音信が「世界の暗黒のただ中にキリストがお生まれになった出来事」であるのと同じように、イースターの音信は「不安と怒りと悲しみが渦巻く異常な世界のただ中で、復活の主がいま私たちと共にいて下さる出来事」なのです。

 

 「イースターおめでとう」と私たちが挨拶を交わし合うのは、それはこの救いの音信が私たちの自然性の中に根拠を持つものではなく、ただ主なる神の御業にのみ根拠を持つものだからです。ということは、イースターの喜びは「それにもかかわらずの喜び」です。いま私たちのこの世界を覆っている闇がどんなに深く、大きなものであろうとも、否、それだからこそ、私たちは主の御復活を喜び祝います。そしてまことの礼拝を献げます。それは「それにもかかわらずの喜び」だからです。そしてどうか私たちははっきりと覚えましょう、今朝の御言葉の4節と5節です。「(4)すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(5)もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。

 

 主の御復活の喜びは、その復活の喜びに教会に連なることによって「あずかる」僕たちとされた私たち全ての者の喜びです。そして私たちはそこに、イースターの喜びの音信の中に、この現実世界と歴史の唯一の本当の救いを見出すのです。だからこそ私たちは互いに挨拶を交わすのです。「イースターおめでとうございます。主はまことに、あなたのために復活されました」と!。祈りましょう。