説    教       ヨブ記720節  ルカ福音書32338

                「救いの系図」 ルカ福音書講解 (14)

                2020・04・05(説教20141850)

 

 今朝の御言葉・ルカ福音書323節には、まず次のように記されています。「(23)イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった」。ここには大変重要な2つのことが示されています。第一に、主イエス・キリストは「年およそ三十歳の時」に洗礼者ヨハネの手から洗礼をお受けになり「宣教をはじめられた」という事実。第二に、主イエス・キリストは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」という事実です。

 

 まず、第一の「イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって」ということは、私たちに何を示しているのでしょうか。孔子は論語の中で「三十にして立つ」と語っています。これは要するに「三十歳というのは人生を本格的にスタートさせる時期だ」という意味です。しかし主イエスの場合の30歳はそれとは意味が大きく違うのです。主イエスは30歳の時に「宣教をはじめられた」のです。つまり、そこで自分の人生をスタートさせたというのではなく、主なる神の御心のままに十字架へと向かう歩みをお始めになったのです。

 

 私の神学校時代の同級生にバプテスト教会で牧師をしている人がいます。この人は農林水産省の技官でしたが、30歳のときに牧師になりたいという願いを、志を抱くようになりました。ところが事情を知らない周囲の人たちは大反対しました。せっかく農林水産省の技官になれたのに、何を血迷って神学校になんか行くのかと言われた。ご自分の奥さんからも大反対されたそうです。「もしあなたが神学校に行くのなら私はあなたと離婚します」とまで言われたそうです。しかし彼は挫けませんでした。そして神学校に入りまして、最初は大反対した奥さんもアルバイトをして彼を献身的に助けるようになりました。そのようにして6年間の神学校時代を経て、今ではある地方の小さなバプテスト教会で良い働きをしているのです。

 

 主イエス・キリストにとって、ご自分が歩みたもう道はすなわち、父なる神の御心のままに歩む道でした。主イエスは少しもご自分中心ということがありません。エゴをお持ちになりません。ご自分の全てをいつも父なる神に委ね、明け渡しておいでになるのです。だから迷いがありませんでした。私たち全ての者の罪の贖いのために、父なる神の御心のままに、十字架への道をまっしぐらに歩みたもうのです。それが今朝の御言葉が示している23節の事柄です。「「(23)イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった」。

 

 それでは、第二の「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」について、私たちはここからどのような福音を聴き取るのでしょうか?。実はその大きな答えが続く主イエスの系図に示されているのです。そこを改めて口語訳で読んでみましょう。23節の後半から38節までです。「(23)(主イエスは)人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、(24)それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、(25)マタテヤ、アモス、ナホム、エスリ、ナンガイ、(26)マハテ、マタテヤ、シメイ、ヨセク、ヨダ、(27)ヨハナン、レサ、ゾロバベル、サラテル、ネリ、(28)メルキ、アデイ、コサム、エルマダム、エル、(29)ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、(30)シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリヤキム、(31)メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、(32)エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン、(33)アミナダブ、アデミン、アルニ、エスロン、パレス、ユダ、(34)ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、(35)セルグ、レウ、ペレグ、エベル、サラ、(36)カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、ラメク、(37)メトセラ、エノク、ヤレデ、マハラレル、カイナン、(38)エノス、セツ、アダム、そして神にいたる」。

 

 このあたりは聞き慣れない昔のヘブライ語の人名の羅列でありまして、特に33節のアミナダブをよく知らない人は「アミダブツ」と読んでしまうと聞いたことがあります。いくらなんでも聖書の中にアミダブツは出てきませんが…。ともあれ、ここに記されているたくさんの人名は主イエスの「ヨセフの子」としての系図です。つまり人間として私たちのただ中に来て下さった主イエスは、このような「救いの系図」において私たちの歴史の中に来て下さったかたなのです。これは主イエス・キリストの歴史における系図ですから、本来ならばここに記されている人名について詳しく語られるべきなのですが、今日はそのような時間はありません。だから私たちはただ2,3の人名についてのみ心に留めたいと思います。

 

 まず31節をご覧ください。ここに私たちも良く知るところの紀元前8世紀のイスラエルの王「ダビデ」の名が出てきます。それと関連してダビデの父である「エッサイ」の名が32節に出てきます。不思議なのはダビデの子として記されるべきソロモンの名は無くて、その代わりに31節に「ナタン」の名が記されていることです。この「ナタン」というのはダビデ王の罪を指摘してダビデ王に悔改めを迫った預言者です。そのあたりのことはサムエル記上12章に詳しく記されており、またダビデ自身が詩篇51篇において悔改めの詩を歌っています。

 

 言い換えるなら、ここにイスラエルの王ダビデの名が記されていることは系図として誇りになることなどではないのです。その逆です。これはできることなら消してしまいたい恥ずかしい名前なのです。「私の先祖にはこんなに恥ずかしい罪を犯した人物がいました」と公言している系図なのです。しかもその罪を指摘した預言者ナタンの名と共に記されているのです。これは、どういうことなのでしょうか?。それは私たちの罪と恥の現実のただ中に、まさにそこに連帯して下さる救い主として、主イエス・キリストが来て下さったことを示しているのです。主イエスは私たちの歴史と現実が罪と恥に塗れているから来て下さらなかったのではないのです。まさに私たちの歴史と現実が数々の罪と恥に塗れているからこそ、そこに来て下さり、私たちのために十字架への道を歩んで下さったかたなのです。だからこそこのかたは「キリスト=メシア=救い主」と呼ばれるのです。

 

 今日から受難週が始まります。新型コロナウイルスの騒動の中での受難週は、ともすると私たちにとって年中行事化してしまった受難週を心新たに迎えさせる良い機会なのではないでしょうか。私たちはこの一週間を悔改めの祈りと共に過ごして参りたい。主なる神に立ち帰る喜びをもって歩んで参りたい。まさにその喜びと幸いを私たちに与えたもうためにこそ、神の御子イエス・キリストは私たちの罪と恥の歴史的現実のただ中に人となられ、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。

 

 終わりに私たちはあと2つの人名に注目しましょう。それは37節に「メトセラ」とその父である「エノク」の名が記されていることです。まずメトセラですが、この人は創世記521節以下にたった一度だけ出てきます。たいへん長生きをした人でして969歳で死んだと記されています。これは旧約聖書に登場する人物では最長寿記録でして、今日でも英語では長寿の人のことを「メトセラのようだ」ということがあります。しかし、メトセラはただ単に長寿を全うしたというだけではありません。生涯を神に仕える敬虔な信仰の人生を歩んだ人なのです。

 

 私はここで伊藤亮一さんのことを思い出します。伊藤亮一さんもたいへん長寿のかたで106歳で天に召されました。そしてその全生涯を神の僕、キリストの弟子として歩みぬいた人でした。

 

 さて、そのメトセラのお父さんであったエノクですが、この人はカインとアベルのカインの息子です。そりことが創世記417節からわかります。そしてこのエノクは何らかの出来事によって人生を途中で終わらせられた人です。そのことが創世記524節に出てきます。「(24) エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」とあることです。エノクの人生は息子であるメトセラの半分にも及びませんでした。しかし彼の人生は「神と共に歩んだ」人生でした。このエノクもまた私たちの仲間の一人です。私は安部三枝子さんのことを思い出しています。彼女の人生もまた「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」人生ではなかったでしょうか。

 

 そのようなことを読みますとき、思い起こしますとき、主イエスの系図というものは、実は私たち一人びとりに繋がっている「救いの系図」なのだということがわかるのです。そしてこの系図の最後は何とありますか?。今朝の38節の最後の言葉です。「そして神にいたる」で終わっているのです。私たちの救いのために、主なる神ご自身が御子イエス・キリストを世に与えて下さり、私たちを尊い救いに与からせ、主の御身体なる教会の枝となし、永遠の生命、復活の生命を与えて下さったのです。実に私たち一人びとりが「救いの系図」の一員とされているのです。祈りましょう。