説    教       イザヤ書421~2節  ルカ福音書31822

                「神の御子イエス」 ルカ福音書講解 (13)

                2020・03・29(説教20131849)

 

 今朝の御言葉であるルカ福音書318節以下には、まず次のようなことが記されています。「(18)こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。(19)ところが領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、(20)彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた」。

 

 ここに記されていることは、当時のユダヤの王ヘロデが洗礼者ヨハネを捕えて「獄に閉じ込め」たことです。その理由は、ヘロデが兄弟の妻であるヘロデヤを奪って無理やり自分のものにしたことでした。当時の王としては、このようなことは日常茶飯事でした。しかし洗礼者ヨハネはヘロデ王のこの行いを神の言葉に叛く罪として厳しく咎め、ヘロデ王に悔改めを迫ったのです。そのことを逆恨みしたヘロデによって洗礼者ヨハネは捕えられ、20節にあるように「彼を獄に閉じ込めて、(ヘロデ王は)いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた」のでした。

 

 このことが、いわば今朝の御言葉の前奏曲です。つまりそれは、私たち人間の罪がもたらす混乱と無秩序、そして悲しみと分裂です。事実ヘロデ王の家系を見ますと、それは兄弟が兄弟を殺し、親が子を殺し、子が親を殺し、兄弟が妻を互いに奪い合うという、混乱と狂騒の極みを現わしていました。それならば、まさにそのような私たち人間の罪のもたらす混乱と暗黒のただ中に、神の御子イエス・キリストは来て下さったのです。この事実を今朝の御言葉は明確に私たちに告げているのです。

 

 そのような私たちの罪の暗黒のただ中に来て下さった主イエス・キリストが、まず最初になさったことは何だったでしょうか?。それは洗礼者ヨハネの手からみずから洗礼をお受けになることでした。それが今朝の御言葉の21節と22節です。「(21)さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、(22)聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。

 

 これは、実は、大変なことではないでしょうか?。洗礼者ヨハネが荒野のヨルダン川の岸辺で人々に授けていた洗礼は「悔改めのバプテスマ」でした。それは元々のギリシヤ語を直訳するなら「全ての人に悔改めを与える洗礼」です。「悔改め」とは私たちが罪の支配を離れて主なる神の御手に自分を明け渡すことです。罪を主として生きていた私たちが神のみを唯一まことの主として生きることです。それが洗礼者ヨハネの手から洗礼を受けることの意味です。それならば、私たちはここで敢えて問わざるをえません。大きな疑問を投げ掛けざるをえません。神の永遠の御子イエス・キリストに、その「悔改めのバプテスマ」が必要だったのでしょうか?。そもそも主イエス・キリストは悔改めを必要とされるおかたなのでしょうか?。

 

 その答えはもちろん「否」でしかありえないのです。主イエス・キリストはまことの神の永遠の独子であられます。父なる神と本質を同じくなしたもうかたです。それならば、主イエス・キリストには、主イエス・キリストだけは「悔改めのバプテスマ」を必要とされないかたなのです。それにもかかわらず、どうして主イエスは洗礼者ヨハネの手から洗礼をお受けになったのでょうか?。ここに大きな謎があります。この謎を解くために多くの神学者たちが仮説を立てました。たとえば、アフリカの聖者と言われたアルベルト・シュヴァイツァーは「イエス伝研究史」という本の中で「イエスが洗礼者ヨハネから悔改めのバプテスマを受けたことは、イエスがこの時点においてまだ自分をキリストとは認識していなかったことを示している」と語っています。また別のある神学者は「この事実こそイエスが洗礼者ヨハネの弟子であった証拠である」と語っています。そして「イエスは間違いなくクムラン教団の一員であった」と言い切っているのです。

 

 そうなのでしょうか?。そのような多くの仮説が、今朝の御言葉を正しく読み解くための助けとなるのでしょうか?。そうではないと思います。むしろ私たちは今朝の御言葉の中に確かな唯一の答えを見出すのです。それは今朝の21節以下にこうあることです。「(21)さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、(22)聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。

 

 ここにはまず「民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると」とあります。つり主イエスは「民衆」すなわち一般の人たちの中に立ち混じりたもうて、他の人たちと全く同じように「悔改めのバプテスマ」をお受けになったのです。つまり主イエスは「悔改めのバプテスマ」の恵みを前にして、ご自分一人を「そんなもの必要ない」とはお考えにならなかった。むしろ逆でした。主イエスは心から「悔改めのバプテスマ」をお受けになることを望まれたのです。それは、なぜでしょうか?。その最も確かな答えを、私たちは続く22節の御言葉の中に見出します。すなわち「イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、(22)聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。

 

 主イエスが「悔改めのバプテスマ」をお受けになること、それはなによりも父なる神ご自身が望みたもうたことでした。それは父なる神ご自身の御心だったのです。だからこそ主イエスは、本来は「悔改めのバプテスマ」など必要としないおかたであるにもかかわらず、敢えて洗礼者ヨハネの手から「悔改めのバプテスマ」をお受けになることを望みたもうたのでした。つまり主イエスは、私たち罪人と全く同一の地平に立って下さったのです。私たちと完全に連帯して下さったのです。私たちとこの世界の罪の現実のただ中に来て下さったのです。それこそが主イエスのキリスト(メシア=救主)としての歩みでした。言い換えるなら、主イエスは既にこの時点で、十字架へと向けて歩んでおられるのです。私たちの測り知れぬ罪を背負っておられるのです。だからこそ敢えて「悔改めのバプテスマ」をお受けになったのです。それが父なる神の御心であったのです。

 

 まさにその、主イエスがお示しになった父なる神の御心に対する全き従順を、父なる神は限りなく喜び嘉したもうたのです。それだから22節にあるように「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」たもうたのです。永遠の昔から御国において御父と主イエスと共にありたもうた聖霊が、いま歴史のただ中において十字架の主イエスを私たちに顕したもうかたとして主イエスに下りたもうたのです。聖霊は私たちに主イエス・キリストを「神の子・救い主」として告白する信仰を与えて下さるかたです。そしてさらに大切なことは父なる神ご自身から御声があったことです。22節を改めてご覧ください。「そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。

 

 今朝あわせて拝読したイザヤ書421節以下に、このようにございました。「(1)わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。(2)彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、(3)また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」。まさにイザヤが告げるこの「神の僕」の姿こそ今朝の御言葉に重なり合うのです。主イエスは十字架への道を歩みたもうのです。私たち全ての者の測り知れぬ罪を一身に担いたもう「神の僕」として。このおかたは「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」のです。私たちを罪の審きに引き渡すためではなく、まさに私たちを罪から贖い救って下さるために、このかたご自身が罪による審きをご自身の身に引き受けて下さったのです。それがあの十字架なのです。

 

 まさにこの、主イエスの十字架への歩みに対して、父なる神は『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と御声をかけたもうたのです。十字架の主イエスを祝福したもうたのです。嘉したもうたのです。お慶びになったのです。そうだ、あなたは、私の御心のままに、十字架の道を歩むキリストである。あなたの歩みに、あなたの十字架に、私自身の永遠の心が現れている。そのことをいま父なる神は限りなく喜び嘉したまい、主イエスによる唯一の、永遠の、確かな救いへと、聖霊によって私たちを常に招いておいでになるのです。私たちはこの「神の御子イエス」を救い主として信じ告白し、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる真の教会に仕える僕となり、主の御栄をここに現し続けて参りたいと思います。祈りましょう。