説    教       ミカ書412節   ルカ福音書31517

                「聖霊と火」 ルカ福音書講解 (12)

                2020・03・22(説教20121848)

 

今朝の御言葉であるルカ伝315節以下を、もういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(15)民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。(16)そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(17)また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

 

 ここに記されているのは、まことに厳しい御言葉ではないでしょうか。ユダヤの民衆は旧約聖書の預言に基づいて救い主(メシア=キリスト)を待ち望んでいました。それで、洗礼者ヨハネが彗星のごとく荒野に現れたとき、人々はヨハネこそ来たるべき救い主キリストだと考えたのでした。15節には「みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」と記されています。民衆の噂は口伝えに拡がってゆき、そして拡がって行くと同時に、いつしか希望から期待へ、期待から確信へと変わってゆきました。つまり、洗礼者ヨハネのもとにやってきて悔改めの洗礼を受けた人々は、このヨハネこそキリストであるという確信を抱いていたわけです。だからこそ荒野のヨハネのもとにやって来たのです。

 

 しかし洗礼者ヨハネは、この人々に対して突き放すようなことを言うのです。続く16節をご覧ください。「(15)そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。ここでヨハネが語った事柄はこういうことです。「私はキリストではなく、ただキリストをさし示すために来た者に過ぎない。その証拠には、私はただ水であなたがたに洗礼を授けるだけであるが、来たるべき唯一の救い主イエス・キリストは、聖霊と火によってあなたがたに洗礼を授けて下さるであろう」。

 

 洗礼者ヨハネが最も嫌ったのは、避けたいと願ったのは、自分が民衆によって救い主に祭り上げられることでした。実際に夥しい群衆がヨハネのもとに押し寄せてきて、ヨハネをキリストに祭り上げようとしていたのです。私はかつてイスラエルに参りましたとき、死海のほとりのクムランの遺跡を訪ねたことがあります。クムランの遺跡は「良きサマリア人の譬え」や「ザアカイの悔改め」で有名なエリコの町から車で1時間ほど南に下った荒野の中にあります。「20世紀最大の発見」と言われる死海文書(The dead sea scrolls)が発見された場所です。それで、そのクムランの遺跡は長くユダヤ教の修道院の跡だと考えられてきたのですけれども、実は最近の研究によれば、エッセネ派と言われる人々が救い主を待ち望みながら共同生活をしていた場所だということがわかってきました。もしかしたら主イエスも一時期はそこにいらしたのではないかという説もあります。(私はその説には否定的です。主イエスはクムラン教団の一員であった時期は無かったと私は考えています)

 

 ともあれ、そのクムランの遺跡に、世界共通語でバプティストリウムと言うのですが、洗礼のための水槽の跡があるのです。私もそこをしっかりと見てきました。まさにその洗礼のための水槽が、バプティストリウムがあることによって、洗礼者ヨハネはこのクムランで共同生活をしていたエッセネ派の一員、おそらくその指導者だったのではないかと考えられているのです。そして何らかの事情でヨハネはこのクムラン教団を去ることになり、そして今朝の御言葉が告げているような説教をヨルダン川の岸辺において人々に宣べ伝える「荒野に叫ぶ者の声」になり、人々に悔改めのバプテスマを授けるようになったのだと考えられています。

 

 そこで、そのクムラン教団の洗礼のための水槽ですが、どうもそこでは毎日夜明けに全員がそこで洗礼を受けていたらしいのです。そのような記事が古文書から発見されたのです。私たちは洗礼と言うと一生に一度限りのものだと当然のように考えています。しかし洗礼者ヨハネが荒野のヨルダン川で人々に授けていた洗礼は、実は毎日受けるべき洗礼であったらしいのです。このあたり、まだはっきりと確かなことは言えないのですが、少なくとも生涯に一度限りの洗礼ではなかったことだけは確かなようです。ちょうど、私たちが毎日お風呂に入るようなもので、悔改めのための洗礼は幾度も繰返し受けるべきものだったのです。

 

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。今朝の16節をもう一度ご覧ください。「(16)そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。ここで洗礼者ヨハネは「わたしよりも力のあるかたが、おいでになる」と語っています。つまりそれは「そのかたをこそ信じなさい。そのかたこそ生ける神の御子キリストなのだ」という福音の宣言なのです。自分が授けている洗礼はただ悔改めのためのものであって、それは繰返し受けなければならないものだ。しかし、とヨハネは言います「しかし、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。

 

 ここで大切な言葉は「聖霊と火によって」です。これこそ今朝の御言葉の中心だと言って良いでしょう。来たりたもう真の救い主、神の御子であられるキリストは「聖霊と火」によってあなたがたに本物の洗礼を、救いのための唯一の洗礼を、授けて下さるかたであるとヨハネは言うのです。ではその「聖霊と火」とはいったい何のことなのでしょうか?。この大切な御言葉を聴くとき、私たちが忘れてならない大切なことがあります。それはニカイア信条に告白されている事柄です。聖霊は「父と子から出て、父と子とともに崇められる」かたであるという事実です。この大切なことを忘れますと、私たちは「聖霊と火」と聞いて戸惑ってしまうのです。この二つを分けて考えてしまうのです。「自分はたしかに父と子と聖霊なる三位一体の上の御名において洗礼を受けたけれど、火による洗礼はまだ受けた覚えがない」ということになってしまうのです。それは今朝の御言葉の間違った理解です。

 

 火は全てのものを焼き尽くし、全てのものを清める、浄化する、新しくする、という性質を持っています。今ではもう見られなくなりましたが、かつては日本でも焼畑農業というものがありました。雑木林の下草と灌木を火で焼いて、そこから新しく芽生える植物を大切に育ててゆくという農法です。私たちの罪もそれと同じではないでしょうか。私たちは主イエス・キリストの十字架による贖いにってのみ浄められ、新たにされ、永遠の生命を与えられるのです。だから「聖霊と火」による洗礼を受けることは主イエス・キリストの贖いによって新しくされることです。それはヨハネの洗礼とは違って一回限りの洗礼です。繰り返される必要はないのです。なぜなら、主イエス・キリストはただ一度だけ十字架におかかりになり、その十字架によって私たちの罪と死を永遠に贖って下さり、私たちに永遠の救いを与えて下さったからです。

 

 「(16)わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。そして続けてヨハネはこのように宣べ伝えました。「(17)また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。私たちはこの御言葉を聴いて怖れを抱きます。しかしどうか、忘れないで下さい。この審きは神の永遠の御子イエス・キリストご自身が、私たちの身代わりとなって引き受けて下さったのです。だから私たちは審きを怖れるより以上の確信と喜びをもって十字架と復活の主イエス・キリストを仰ぎます。十字架と復活の主が再び来たりたもうて全世界に救いを完成して下さることを信じ待ち望みます。

 

 私たちは今、そのような待ち望みの幸いに生きる主の民、神の国の国籍ある者とされているのです。だから「聖霊と火」による洗礼の恵みは、いまここに集うている私たち全ての者たちへの祝福なのです。その祝福に満たされ、恵みによって押し出され、主の愛に守られながら、私たちは新しい一週間の日々を、レントの季節の信仰の歩みを、祈りをもって歩んで参りたいと思います。祈りましょう。