説    教       箴言1923節   ルカ福音書31014

                「なにを為すべきか」 ルカ福音書講解 (11)

                2020・03・15(説教20111847)

 

 今朝の御言葉、ルカ伝310節以下をもう一度、口語訳でお読みいたしましょう。「(10)そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。(11)彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。(12)取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。(13)彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。(14)兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。

 

 ここに描かれている場面は、洗礼者ヨハネによって悔改めの促しの説教を聴いたユダヤの人々が示した具体的な反応です。多くの人たちはヨハネにこう訊ねたのです。「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」。この反応はすなわち「私たちはなにを為すべきなのですか」という問いです。人々は洗礼者ヨハネに具体的な生活への指針を求めたのです。信仰と生活はいつも密接に結びついているものです。信仰と生活が別々のものになってしまったら、それは本当の信仰とは言えませんし、ましてや神に喜んで戴ける生活であると言うことはできません。信仰と生活は同じ車軸の両輪のようなもので、そのどちらが欠けていても私たちの健全な「信仰生活」にはなりえないからです。

 

 第二次世界大戦のさなか、ドイツの強制収容所で殉教の死を遂げたディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)という神学者がいました。このボンヘッファー牧師が「行為と存在」という論文を書いています。原文では「Act und Sein」でありまして、まさに今朝の御言葉で言うところの「信仰と生活」の問題を神学的に扱ったものです。つまり「なにを為すべきか」という問いを聖書に基づいて掘り下げた論文です。この中でボンヘッファーは不思議な言葉を用いています。それは「私たちキリスト者は教会によって行為するのだ」という言葉です。これはどのような意味かと申しますと、私たちは主イエス・キリストの御身体なる教会という「行為と存在のための活きた唯一の身体」を戴いているのだということです。

 

言い変えるならば、私たちキリスト者は単独で「行為と存在」を担う人間として生きるのではないということです。もっと言うなら、私たちは自分を中心とはしない。自分を神とはしないということです。私たちの「行為と存在」の中心はいつも主イエス・キリストであられる。キリストのみが唯一永遠の「主」にいましたもう。このことがどんなに大切なことかとボンヘッファーは語っているのです。それは同時に、今朝の御言葉における洗礼者ヨハネの説教の言葉と重なり合うのではないでしょうか。私たちは改めて11節以下のヨハネの説教を読んでみましょう。「(11)彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。(12)取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。(13)彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。(14)兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。

 

 ここに私たちは、様々な生活上の疑問や悩みを抱えていた人たちが、洗礼者ヨハネのもとに自分たちの疑問や悩みの数々を率直に打ち明け、そして「なにを為すべきか」を真剣に訊ねていた様子を伺い知ることができます。今朝あわせてお読みした旧約聖書の箴言1923節にこうありました。「(23)主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない」。ここには信仰に基づいて生きる私たちの「行為と存在」の活きた証の姿があるのではないでしょうか。「主を恐れること」とは主の御身体なる教会に連なり、キリストの復活の御身体に結ばれた者として生きることです。その信仰の歩みこそが私たちを真に生かしめ「人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない」者となすのです。

 

 まず最初にヨハネのもとを訪れたのは普通の一般市民たちでした。彼らはヨハネに「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と訊きました。その彼らに対してヨハネはこう答えました。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。昨今のコロナウイルス騒動の中で、トイレットペーパーやコメなどの生活必需品が無くなるという現象が起こりました。あれなど、考えればすぐにわかることです。配送業者がスーパーや小売店に供給する量は決まっているのですから、それを多くの人たちが「買い占め」に走ればあっという間に小売店の在庫が底を尽きるのは当然のことです。ようするにこの11節の言葉で言うならば「持たない者に分けてあげる」心が失われたからこそあの騒動が起こったのです。ヨハネがヨルダン川の畔でこの説教をしてから2000年が経過しているにもかかわらず、人間の心はいまだに「買い占め」の愚かさから少しも前進していないのではないでしょうか。

 

 次に12節です。「(12)取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。(13)彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。この場合の「取税人」というのはルカ伝19章にも出てくるあのザアカイのような取税人のことです。彼らはそれこそユダヤの民衆から23倍あるいは5倍の税金を取り立て、余分に得た多くの金で私腹を肥やしていた輩でした。その彼らが、いわば魅力的な既得権益をかなぐり捨ててまで荒野のヨハネのもとに来て「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」と訊ねたわけでして、これは大変なことだと言わなくてはなりません。その彼らにヨハネは「「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」と説き勧めました。

 

 私たちは同じルカ伝19章のあの取税人ザアカイと主イエスとの出会いのことを思い起こします。主イエスはザアカイの家の客となられました。「今日はあなたの家に泊めてもらうことにしたよ」と言って下さいました。ザアカイは大喜びで主イエスを家にお迎えしました。その主イエスとの親しい出会いの中で、ザアカイは大きく変えられたのでした。悔改めの喜びが与えられたのです。ザアカイは立って言いました。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。これは単なるザアカイの決意表明ではなく、主イエスに対する信仰告白の言葉です。信仰が彼を救ったのです。ザアカイはこの後の人生を主イエスの弟子として歩んだのです。

 

 そして、そのザアカイに主イエスはこう言われました。「(9)イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。(10)人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。このルカ伝1910節の御言葉が告げる救いのもとに、いま私たち全ての者たちが生きる喜びを与えられているのです。「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。(10)人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。まさに主イエス・キリストは、私たちを罪から救い「アブラハムの子」すなわち「天に国籍ある者」として下さるために、十字架におかかりになられて、私たちの罪の贖いとなって下さったのです。

 

 14節には「兵卒たち」が来て洗礼者ヨハネにこう言いました。「(14)兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼(ヨハネ)は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。ここで「兵卒たち」と言いますのは間違いなくローマの兵卒たちのことです。ですから洗礼者ヨハネのもとにユダヤ人以外の「異邦人」も来て説教を聴いていたことがわかるのです。当時の兵卒たちは植民地に対する横暴さゆえに、それこそこの御言葉のとおり「人をおどかしたり、だまし取ったり」していました。いわばそれが彼らの役得でもあったわけです。それをいっさいしてはならないとヨハネは彼らに命じました。「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。

 

 ここにも、私たちは主に結ばれた新しい生活の、喜びと自由の調べを聴きとるのではないでしょうか。圧政と暴虐は悲しみと混乱しか生み出しません。それをいっさい放棄して、自分を主なる神の御手に委ねてこそ、はじめて彼らは「自分の給与で満足して」いることができるのです。だからここにあるのはボンヘッファーが語ったように「キリストの御身体なる教会に結ばれた者たちの新しい自由な歩み」です。「私たちキリスト者は教会によって行為するのだ」という事実です。そしてその教会の主こそ、全世界の罪の贖いのために十字架におかかりになり、そして復活して下さった主イエス・キリストであられるのです。