説    教      イザヤ書403節   ルカ福音書316

                「主の道を備えよ」 ルカ福音書講解 (9)

                2020・03・01(説教20091845)

 

 先ほどお読みした旧約聖書イザヤ書403節に、このようにございました。「(3)呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。紀元前6世紀の預言者イザヤはバビロン捕囚の悲劇の終わりを捕囚の民、イスラエルの人々に語り告げました。ここに「呼ばわる者の声」とありますのは、解放された喜びをもって力の限りに声を張り上げる様子です。その内容はこうでした。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。

 

 預言者とは「主イエス・キリストによる全世界の救いを宣べ伝える者」という意味です。ですから「預言者」という言葉は厳密にはキリスト教の教会だけでのみ通用するのです。まさにその預言者イザヤが告げた「荒野に主の道を備え」ることとは、いったいどのようなことなのでしょうか?。今日はこの大切な福音の音信を、ご一緒にルカ福音書31節以下を通して聴いて参りたいと思います。

 

 そこで、今朝のルカ伝31節以下にこのようにございました。「(1)皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、(2)アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。(3)彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた」。ここで私たちは厳密な年代を知ることができます。「皇帝テベリオ」すなわちティベリウスがローマ皇帝に即位したのは西暦14年のことですから「皇帝テベリオ在位の第十五年」というのは西暦29年のことだとわかるのです。すなわちそれは主イエスが29歳の時のことです。

 

 この年、西暦29年に「神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」のでした。この「ザカリヤの子ヨハネ」すなわちバプテスマのヨハネの母エリサベツは、ルカ伝136節によれば主イエスの母マリアと親戚関係にあった人です。ですからバプテスマのヨハネは地上の血縁関係においては主イエスの親戚であったことがわかるのです。また、ヨハネ伝135節によれば、主イエスの弟子となったシモン・ペテロとアンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子であったようです。こうしたことからも、私たちは当時のイスラエルにおいて、バプテスマのヨハネがどんなに大きな影響を人々に与えた人であったか、その一端を知ることができるのではないでしょうか。

 

さて、では、このバプテスマのヨハネの宣教の内容は何であったかと申しますと、それこそ先ほどのイザヤ書403節の成就をヨハネは宣言したのです。すなわち今朝のルカ伝33節以下です。(3)彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。(4)それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。(5)すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、(6)人はみな神の救を見るであろう」。

 

 ここで最も留意すべき大切な御言葉は、最後の6節「人はみな神の救を見るであろう」です。バビロン捕囚の苦難の中にあった人々も、そして主イエスの時代のイスラエルの人々も、同時にいま今日の私たちも、主なる神の「救い」が見えなくなっているからこそ、かくも混乱し、行く先を見失い、希望を失い、互いに審き合い、どのように行動して良いのかわからず、迷い、苛立ち、いがみ合っているのではないでしょうか。今日の御言葉でバプテスマのヨハネが宣べ伝えている「神の救い」こそ、実は最も深く確かなところで人間社会を人間社会たらめる鍵だと言って良いのです。

 

 昨今の新型コロナウイルス騒動を見ていてもそうなのですが、マスコミが社会に大きな混乱を与えているわけで、その責任はとても大きいと私は思います。無責任に発言する人間ほど困ったものはありません。同じことが国連のWTOについても言えます。私の友人に医者がいます。私が神学生であったときに彼は日曜学校の生徒でした。医学部をめざして勉強していまして、惜しくも一浪してしまったとき、私が彼に英語を教えまして、それが功を奏したのかどうかはわかりませんが2度目の挑戦で見事に合格して医者になり、今では川崎市で心療内科の医院を開業している人です。

 

 この友人の医者が先週の木曜日に私に話してくれました。「新型コロナウイルスと言うけれど、あれは本当に普通の風邪のウイルスにすぎません。医者の立場から言うならインフルエンザのほうがずっと恐ろしいです」と。そして何より困るのは、重篤な病気の患者さんのために確保してある病院のベッドが、新型コロナウイルスの患者さん、つまり普通の風邪の患者さんのために使えなくなっていることだそうです。それもこれも、いたずらに不安を煽り続けているマスコミの責任が大きいのではないでしょうか。そしてオリンピックを控えているという政治的判断で、そのマスコミの煽りに無批判に追従している政治家たちの責任が大きいと思うのです。

 

 改めて今日、いまここに在りてこそ、私たちは今朝の御言葉に共に聴こうではありませんか。バプテスマのヨハネが預言者イザヤのように「呼ばわる者の声」として高らかに宣言したのは3節にあるように「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」でした。私たち人間にとって何がいちばん大切であるか、何が人間の社会を社会たらしめるのか。それはマスクが無いからと言って騒ぐことではなく、品薄になっては大変だとトイレットペーパーを買い占めに走ることでもなく、電車の中で咳込む人を睨みつけることでもなく、ましてや緊急停車ボタンを押すことでもない。いちばん大切なことは「罪の赦し」を神から戴くことです。それこそが人生の真の一大事なのです。まさにその「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」を、人生の真の一大事を、バプテスマのヨハネは全ての人々に宣べ伝えました。そして人々は続々と列をなしてヨルダン川のヨハネのもとに押し寄せ、そこで「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」を受けたのです。

 

 それはもしイメージとして表現するなら、こういうことでした。人々は、私たちは、「神の救い」を見ようとしても、それがどうしても見えなかったのです。それは、山々が立ち塞がっていたからです。深い谷もあったからです。それはイスラエルの人々が捕囚として捕え移されていったバビロニアの風景そのものでした。何よりもその山々や深い谷は、全ての人の心の中にある「罪」すなわち神への叛きのことでした。しかしいま預言者は「呼ばわる者の声」として人々に宣言します。全ての人が「神の救い」をいましっかりと見ることができるように「(4)主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。(5)すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、(6)人はみな神の救を見るであろう」と。

 

 これは、私たちに土木工事をせよとの命令通達ではありません。私たちには山々を削って平らかにする力はありません。ましてや私たちは自分の罪をどうすることもできません。それならば「主の道を備えよ」というバプテスマのヨハネの宣教の声は、現実味の無いただの掛け声に過ぎなかったのでしょうか?。もちろん、そうではありません。私たちにはできないけれども、主なる神がそれを私たちの「救い」のために実現して下さるのです。これは神の御業なのです。では、私たちはただそれを黙って眺めているだけで良いのでしょうか?。

 

 そうではないのです。私たちもまた、喜び勇んでその神の御業に参加する僕たちとならせて戴いているのです。私たちができることは、バケツ一杯の土を運ぶだけかもしれない。一握りの土を谷に投げ込むだけかもしれない。しかしその私たちの手のわざを、主なる神に対する奉仕のわざを、信仰に基づく奉仕を、主なる神は限りなく豊かに用いて下さいます。そしてそこに現れるものは何でしょうか。それこそ今朝の5節以下です。「(5)すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、(6)人はみな神の救を見るであろう」。この神の栄光を私たちはみな共に見る者とされるのです。

 

 そして神に対する奉仕とは何ですか?。それは礼拝です。礼拝を中心とした、基軸とした、私たちの新しい生活です。ドイツ語で礼拝のことを“Gottesdienst”と言いますが、それは「神への奉仕」と「神のわざ」という2つの意味を持っています。より大切なのは第2の意味のほうです。主イエス・キリストが十字架におかかりになってまでも、私たちの測り知れぬ罪を贖い、私たちを御国の民、神に仕える僕として下さったことです。まさに「神のわざ」すなわち「神による罪からの救い」を戴いた私たちは、いまイザヤと共に、バプテスマのヨハネと共に、贖われた全ての民と共に、「神の救い」を見る者とされているのです。祈りましょう。