説    教       箴言17節   ルカ福音書252

                「神と人から愛せられ」 ルカ福音書講解 (8)

                2020・02・23(説教20081844)

 

 「(52)イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。今朝、私たちはこの短い御言葉を福音として与えられました。これは短いですが、とても興味ぶかい御言葉であり、そしてたいへん多くのことを考えさせられる御言葉でもあると思います。そこで今日はこの短い御言葉について、ふだん私たちがあまり気にも留めず、読み過ごしていることを、改めて心に留めて参りたいと思います。

 

 まず、私たちはここに主イエスが「神と人から愛された」とあることに心を向けたいと思います。これを読む時に私たちは思うのではないでしょうか。「ああ、そうですよね。イエス様のようなかたなのだから、神様と人間の双方に愛されて当然ですよね」と。しかし、こうした読みかたは本当に正しい聖書の読みかたなのでしょうか?。そもそも私たちは今朝のこのルカ伝252節のような短い御言葉を、どのように読んでいるのでしょうか。

 

 私は牧師になって今年で38年になりますが、その間にずいぶんたくさんの結婚式の司式をして参りました。その中には教会ではなく、ホテルや結婚式場のような別の場所での司式を依頼されることがあります。もちろん結婚する当人たちには事前に半年以上の準備の期間を持ちます。そのようにして結婚式の当日になり、ホテルの式場係の人から式次第を手渡されます。「牧師さま、ではどうぞ、このとおりに進めて下さい」というわけですね。司式者である私の側の希望や意見は入りこむ隙間がないほど、タイトなスケジュールが決められているわけです。説教の時間も5分ぐらいしかありませんし、讃美歌もホテルのほうで決められています。「このかたの結婚式にはぜひ讃美歌〇〇番を」と言いましても「それは困ります」と断られてしまうのです。

 

 まあ、それは仕方がないことですから、私もそこは妥協して気持ちを切り替えて、与えられた枠内で最高最善の結婚式の司式ができるように頑張るわけですが、しかし、どうしても気になって仕方がないことがひとつあるのです。それは何かと言いますと、たいていホテルの側で準備した讃美歌は312番「いつくしみ深き」なのです。それは良いのですが、問題は3番まであるはずの歌詞が2番で終わりになっていることです。皆さんもご存じのように、讃美歌312番の3番はこういう歌詞です「いつくしみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて、導きたもう、世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、いたわりたまわん」。

 

 私が思いますに、どうもこの最後の「世の友われらを、捨て去るときも」という言葉がホテルの人たちには(つまり世間一般の人たちには)引っかかるらしい。お目出たい結婚式の讃美歌なのだから「世の友われらを、捨て去るときも」なんて歌わせるのは失礼だ、縁起でもない、宜しくない、そういう解釈らしいのです。そこで私は改めて考えさせられました。なるほど世間一般の人たちにとって、結婚式というのはそういうものなのか。どういうことかと申しますと、今朝の御言葉ルカ伝252節に「神と人から愛された」とありますが、世間一般の結婚式にとっては「人から愛された」だけで良いのであって「神」は要らないと考えられている、そういうことを改めて感じさせられた次第です。

 

 たとえば、キリスト者である私たちにとってもいかがなものでしょうか?。例えば今朝の52節の御言葉を「イエスはイエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして人から愛された」だけにしたら、私たちはどのような感想を抱くでしょうか?。案外すんなりと「そういうものか」と受け入れられてしまうのかもしれません。すると今朝のこの52節の御言葉は七五三のお祝いの文句と少しも変わらないことになります。千歳飴のパッケージに書かれていたって何の違和感もない言葉になります。そこには「世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、いたわりたまわん」が無いからです。そのほうが一般受けがするのです。当たり障りが無いのです。そのようにして、いつのまにかキリスト教会の伝道の言葉も「人から愛された」だけを語るものになってしまいます。それで良いのでしょうか?。

 

 もちろん、良いはずはありません。大切なことは「そして神と人から愛された」なのです。「世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、いたわり」たもう主なる神の永遠の愛を知ることこそ大切なのです。それがなければ、それが欠けていれば、それが失われれば、キリスト教はもはや「キリスト教」ではなく「人間愛教」になります。そして教会ももはや「教会」ではなく「人間愛の群れ」になってしまうのです。そのようなキリスト教、そのような教会が、今日いかに多いことでしょうか。

 

 いつだったか、先日天に召された石塚安彦さんと祈祷会が終わってから話をしていまして、話がキリスト教の葬儀のことになりました。その中で私が石塚さんにこういうことを申しました。実は私は、葬儀のほうが結婚式よりも「めでたい」と思っている。なぜなら、結婚は何らかの理由によって人生の途中で壊れることがある。離婚することもありうる。しかし葬儀には壊れることがありえない。それは永遠なる神の愛の御手の中に永遠に受け止められることだ。だから葬儀のほうが実は「めでたい」と思う。そうしましたら石塚安彦さんは「先生、それは本当です。だから私の葬儀はぜひお祝いにして下さい」と、そう言われたのです。先日の葬儀に出席されたかたはご存じと思いますが、私はそれで石塚さんの葬儀をセレブレーションとして行いました。その意味は「故人と共に主なる神を讃美すること」です。そこに本当の意味でのセレブレーションがあるのです。

 

 永遠なる神の愛に基礎づけられてこそ、私たちの人間としての愛もまた人生の中にしっかりと基礎づけられ、神の御用のために用いられ、神の御栄をあらわすものとされるのではないでしょうか。その逆に、もし私たちの愛が神の永遠なる愛に基礎づけられたものでなければ、それは単なるエロースに過ぎなくなります。エロースとは「価値追及的な愛」です。自分が相手を愛することにおいて、相手に報酬を、対価を求める愛です。このエロースにとどまるかぎり「可愛さ余って憎さ百倍」の負の連鎖から私たちは逃れることはできません。私の恩師であるある神学者が「愛憎無限」という本を書きました。この世界における最も深刻な人間の問題は、実はこのエロースの愛のもたらす「愛憎無限」に由来していると言えるのです。「こんなに良くしてやったのに恩を仇で返すとは!」という愛憎の構図です。

 

 まさにその「愛憎無限」の負の連鎖を断ち切って、私たちに本当の自由、本当の平安と喜びを与えて下さるために、主イエス・キリストは十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。まさに、私たちのために生命を捨ててまで私たちを愛して下さった十字架の主イエス・キリストにおいてこそ、私たちは「世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、いたわりたまわん」と感謝と確信をもって歌うことができるのです。

 

 そして、さらに大切なことがありましょう?。ゴルゴタの丘に十字架を背負って登ってゆかれる主イエス・キリストに、エルサレムの人々は、ユダヤの民衆は、ここに集うている私たちは、どのようなことをしたのですか?。「神と人」を愛する者として主イエスに相対した私たちであったのでしょうか?。そうではありませんでした。私たちは、群衆は、ゴルゴタの丘に登って行かれる主イエスを口を極めて罵り、拳を振り上げ、石を投げ、唾を吐きかけ、呪ったのでした。憎んだのでした。ここにエロースの愛の限界があります。罪の姿があります。神の御子を十字架にかけるほどの罪をおかし続けるのがエロースの愛だからです。それは愛という名の自己愛であり、愛憎無限の連鎖から一歩も抜け出ることのない罪の歩みなのです。

 

 改めて、今朝の御言葉に立ち戻りましょう。「(52)イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。主イエスは「神と人から愛され」「神と人とを愛する」歩みをなさいました。ヨハネ伝の131節にはこう記されています。「(1)過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。ここにも「過越の祭」が出てきますが、まさにその「過越の祭」つまり受難週において、主イエスは私たちの測り知れぬ罪の全てをただお一人で担われて、十字架にかかって唯一永遠の贖いを成遂げて下さったのです。ただこの十字架の主イエス・キリストが私たちを「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」その愛によって、私たちは軽やかに、自由に、喜びと感謝をもって、神と人とを愛する信仰の道を歩んでゆくことができるのです。

 

 神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のための、唯一にして永遠の贖いを成遂げて下さったこと。この事実にまさる喜びの音信はないのです。私たちは今、その音信に共に生きる者たちとされているのです。祈りましょう。