説    教      申命記161節   ルカ福音書24151

                「十二歳の主イエス」 ルカ福音書講解 (7)

                2020・02・16(説教20071843)

 

 先ほど拝読した旧約聖書の申命記161節にこのようにございました。「(1)あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである」。ここに「アビブの月」という言葉が出てきます。これは古代ユダヤの暦で「麦の青い穂が出てくる月」という意味で、今日の3月中旬から4月中旬頃をさしています。私たちの教会暦で言うならちょうどイースターの季節です。この「アビブの月」にイスラエル全土から都エルサレムに大勢の人々が集まって「過越の祭」を行いました。それはこの161節の続きに示されているように「あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出された」救いの出来事(出エジプトの出来事)に対する感謝の礼拝を献げるためです。

 

 そこで、改めて今朝のルカ福音書241節と42節を見ますと、そこにこのように記されています。「(41)さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。(42)イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した」。つまり十二歳になった主イエスと父ヨセフと母マリア、この「聖家族」たちも他の多くのユダヤ人たちと同様、ガリラヤのナザレからエルサレムに「過越の祭」の礼拝を献げるために上京したのでした。ここで注目すべきは、主イエスが「十二歳」であったと記されていることです。ヘブライ語で「バル・ミツヴァ=成人式と言いまして、今日のイスラエルでは男の子は13歳、女の子は12歳が「成人式」の年齢に定められています。これは何よりも宗教的な意味での成人式です。主イエスの時代の古代イスラエルでは男女ともに12歳でバル・ミツヴァを迎えました。(女の子のみの場合はベト・ミツヴァ、男女合わせての場合はベネ・ミツヴァと呼びます)

 

 これはどういうことかと申しますと、それまでは親がかりで(親に連れられて)礼拝に出席していた子供たちが、12歳になってからは一人で、自分の意志で、自分の信仰で、礼拝に出席し、感謝の供え物を献げ、信仰を告白するようになる、ということなのです。だからバル・ミツヴァは宗教的な成人式です。私はかつてエルサレムに参りましたとき、ちょうどこのバル・ミツヴァの祝賀パーティーのような場所に出会ったことがあります。それはもう大変な喜びでありまして、私が一人の男の子を連れたユダヤ人の家族に「あなたがたの息子さんは今日バル・ミツヴァですか?」とヘブライ語で訊ねましたら抱きつかんばかりに大喜びされました。そしてなぜかキャンデーをたくさんくれました。懐かしい思い出です。

 

このように、ユダヤの人々にとってバル・ミツヴァは非常に大切な行事であり、その一連の宗教行事の最後の締め括りとして行われるものこそ、エルサレム神殿における「過越の祭」の礼拝でした。その大切な礼拝に「聖家族」たちは出席するためにナザレから上京したわけです。ガリラヤのナザレから都エルサレムまでは百数十キロもの遠い道のりでした。もちろん当時は交通機関はなく、歩くかロバに乗るか以外に移動手段はありませんでしたから、道中の安全のためにも、同じ町や村の子供たちは両親と共に一団になって旅をしました。ナザレからはバル・ミツヴァを迎えた同年齢の子供たち、そしてその両親や家族たち、合わせて200人ぐらいの人々が一団になってエルサレムに上京したものと思われます。それはヨセフとマリアにとっても、どんなに大きな喜びであったことでしょうか。

 

 さて、エルサレムにおける夢のような数日間はあっという間に過ぎ去り、ふたたびナザレに帰る日になりました。ナザレから来た200人もの人々は荷造りをして子供たちと共に晴れやかな気持ちでナザレへの道を戻って行きました。今日のルカ伝243節以下を改めてお読み下さい「(43)ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。(44)そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、(45)見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した」。ここに「一日路」という言葉が出てきますが、これは今日で言うなら約35キロです。エルサレムからナザレまでは「四日路」の距離でしたから、全体の約四分の一の道を歩いたところで、ヨセフとマリアは大変なことに気が付いたのです。

 

 それは、一行の子供たちの集団の中に「いる」とばかり思いこんでいた主イエスが、「いない」ということに気が付いたのでした。たちまちヨセフとマリアの顔は青ざめ、必死になって周囲の人たちにわが子イエスの所在を訊ねて回ったのですが、誰も知っている人はいませんでした。それでヨセフとマリアはもと来た道をエルサレムまで大急ぎで引き返したのです。もちろん、戻る途中で出会った人たち、そしてエルサレムの街中の人たちに、こういう男の子を見ませんでしたか?。「過越の祭」のためにここに来て、そのままはぐれてしまったんですと、もう必死になって探して回ったのです。しかしイエスの行方はわからなかった。

 

 そのようにして今朝の46節に参ります。「(46) そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」。ここには「そして三日の後に」とございますから、なんとヨセフとマリアはほとんど眠ることもせずに丸二日間エルサレム中を探し回ったのです。最後に、ああそうだ、最後に、神殿が残っているじゃあないかと、たぶんヨセフが気が付いたのだと思います。いやいや、神殿にわが子がいるはずはない。「過越の祭」は終わったのだから残っているはずはない。しかし「もしかしたら」という一縷の望みを託してエルサレム神殿にやってきますと、遠くのほうで子供の声がする。それはまぎれもなくわが子イエスの声でした。

 

 そこに急いでやって来ますと、そこではなんと「(46)イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。(47)聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた」と言うのです。十二歳の少年イエスをぐるりと取り囲んで、パリサイ人や律法学者たちが輪になって、聖書の御言葉について質問をしたり、答えたり、やりとりをしていたわけです。そして「聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた」というのです。この聖書問答のやりとりの様子は今日のイスラエル社会においても見られるものです。ただし真中に座る人は大祭司のような偉い律法学者に限られています。その本来は大祭司が座るべき場所に十二歳の少年イエスが座って、取り囲む律法学者たちの質問に答えていたわけですね。そして「聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた」というのです。どんなに凄い場面であるか、それでわかるのではないでしょうか。

 

 しかしこれは、当然のことなのです。主イエスは永遠なる神の独子であられ、神と本質を同じくなしたもうおかたなのですから、主イエスの御口から出る言葉はそのまま、永遠なる神の御言葉そのものであったことは当然ではないでしょうか。人間的な目で見るなら僅か十二歳の少年に過ぎませんけれども、主なる神ご自身が少年イエスを通して律法学者たちに福音の真理を語り告げておられたのです。つまりそこには本当の神学がありました。改革者ルターはこのように語っています「十字架につけられたまいしイエス・キリストの内にこそ真の神学と神認識がある」。まさに十二歳の少年イエスの口から出た言葉の中にこそ「真の神学と神認識」があったのです。だからこそ「聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた」のです。

 

 しかしここで黙っていられなかったのがヨセフとマリアでした。当然でしょう。三日間も不眠不休でイエスを探し続けたのです。だから母マリアは思わずその場に割りこんでわが子イエスに言いました。48節です。「(48)両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。これは原文のギリシヤ語を見てもかなりきつい言いかたです。文字どおり、親がいけないことをしたわが子を叱るときの口調そのままです。それはそうでしょう。勝手に親から離れ、しかも並み居る律法学者を相手に大祭司の席に座っていたのですから…。しかし驚くべきは主イエスのお答えでした。49節です。「するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。

 

 私たちは改めて、バル・ミツヴァのことを思い起こしましょう。それは「宗教的な成人式」だと申しました。主イエスはただ父の家に留まっておられただけなのです。バル・ミツヴァを迎えたのだから、もう親がかりの礼拝生活をしてはならないと思われたのです。それで、ご自身の天の父なる神の家である神殿に(主の教会に)留まっておられたのです。この事実は大切です。なぜなら私たちのこの教会もまた、主が留まっていて下さる場所だからです。そして聖霊によって現臨したもう主みずから、私たちに御言葉を、真の神学と神認識を、語り続けていて下さるのです。それが主の教会なのです。

 

 最後に、話は変わりますが、私は昨年の11月に高校時代以来約四十数年ぶりに訪ねた場所があります。それは上州(群馬県)安中の郊外にある新島襄旧宅です。軽井沢の手前約20キロの場所です。京都の寺町丸太町上ル(あがる)にも新島襄旧宅というのがありますが、安中のほうは新島襄のご両親が住んでいた、いわば新島襄の実家です。石塚武志さんも訪ねられたのでご存じと思いますが、その安中の新島襄旧宅の裏手に湯浅半月という詩人の書いた記念碑がありまして、そこには新島襄がアメリカに密航して苦学して帰国し京都に同志社を設立したことどもが漢文調で書いてあるのですが、その湯浅半月の歌にこういうものがあります。「訪ぬべきかたはおのずと知らるべし子は父の家にあるべきものを」。私たちはこの大切なことを忘れますと、人間としての魂の綱が切れて、宇宙の放浪者になってしまうのです。「訪ぬべきかたはおのずと知らるべし子は父の家にあるべきものを」という事実です。

 

主イエス・キリストは測り知れぬ罪人なる私たちのために「あなたのために天に場所を用意しに行く」と言われて十字架におかかりになりました。それはどういうことかと言いますと、私たちが永遠なる天の御国に、父なる神のもとに、永遠に「あるべき」ためにです。いわば主イエス・キリストは、罪によって宇宙の放浪者でしかありえなくなった私たちを「父の家」に呼び戻して下さり、天の永遠の国籍を、御国の席を与えて下さるために、十字架にかかって贖いとなって下さったのです。だからこそ私たちはこの主イエスを「キリスト」すなわち救い主と呼びまつり、感謝と讃美を献げるのです。祈りましょう。