説    教     イザヤ書1112節   ルカ福音書23940

                「聖家族の歩み」 ルカ福音書講解 (6)

                2020・02・09(説教20061842)

 

(39)両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。(40)幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」。今朝、私たちはこの御言葉を与えられました。ルカ福音書239節と40節です。ここには「聖家族の歩み」がごく短い言葉で的確に語られています。「聖家族」と言うのは幼子主イエスと、父ヨセフと母マリアの3人のことです。 この世界の片隅の、ユダヤのガリラヤ地方のナザレという村里において、この小さな3人の「聖家族」は歩みを始めてゆきます。どのような歩みでしょうか?。それは十字架へと向かわれる幼子主イエス・キリストの歩みと、そのキリストの歩みに肉親として寄り添うヨセフとマリアの歩みです。

 

 それでは、まずヨセフとマリアの「歩み」に心を向けて参りましょう。先ほどの39節を見ますと「(39)両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った」と記されています。大祭司シメオンのもとで祝福を戴き、イエス(救い主)と命名され、さらに女預言者アンナからも祝福と託宣を受けた、夢のような数日間はあっという間に過ぎ去りました。ヨセフとマリアは幼子主イエスを抱いて100キロ以上もの同じ道を故郷ナザレへと帰ってゆきました。そしていつものとおりの日常生活が始まったのです。

 

 このことは、私たちにも親しい経験であり、共通した思いなのではないでしょうか。私たちもいつまでも礼拝の場所に、主の教会に、とどまっているわけではありません。礼拝が終われば、その後に特別な集会などがないかぎり、私たちはもと来た道をそれぞれ自分の生活の場へと戻ってゆく、帰ってゆくのです。そしてそのような毎週の教会への行き帰りの中で、ときに私たちは不思議な感覚に捕らわれることはないでしょうか。それは「礼拝における自分と、現実の生活に戻る自分と、いったいどちらが本当の自分なのだろうか?」という思いです。もちろん、どちらも私たち自身であることは間違いないのですが、では、どちらがより大切なものであるか?と問われたとき、私たちはどのような答えをするでしょうか。

 

 一昨日の金曜日、私たちの葉山教会では約100年間続けてきた金曜日夜7時半からの祈祷会の最後の時を過ごしました。5名の出席者でした。祈祷会は形を変えて、まさにこの礼拝直後に行うのですが、礼拝直後に長老・執事の中から1名が全教会員を代表して祈りを献げ、それをそこに出席した全員が「共同の祈り=教会の祈り」として献げるという形をとります。100年目の大きな改革です。それはともあれ、一昨日の祈祷会に出席した兄弟姉妹と、私はこのような話をしたのです。日本の教育制度、特に大学教育において、いちばん大きな欠点は何かと言いますと、私はそれは「虚学」(リベラルアーツ)を蔑ろにしてきたことだと思うのです。リベラルアーツと言いますのは、代表的なもので申しますなら、神学と哲学です。神と人間、超自然的世界と自然的世界、フランスの哲学者ベルグソンの言葉で言うなら現象的世界全体の根源的真理を取り扱う学問です。語学ではラテン語や古典ギリシヤ語やヘブライ語などの古典言語が虚学には不可欠なアイテムになります。

 

 それと正反対なのは「実学」と呼ばれるものです。わかりやすく申しますと「就職するのに役立つ学問」のことです。つまり「就職に役に立たない学問」が虚学、反対に「就職に役立つ学問」が実学です。しかし実は、大切なのは虚学なのです。虚学が全ての学問の基礎にあってこそ、はじめて本当の文化、学術、技術、芸術が生まれてくるのです。そこで、礼拝と現実の生活とを並べてみるとき、それと同じことが言えるのではないでしょうか。礼拝は日曜日の午前中という、いわば私たちの普通の現実感覚から言うならば、いちばん「ゆっくりしたい、休みたい時間」に行われます。ですからつい多くのかたが「せっかくの日曜日なのだから、家でゆっくりしていたい」とい誘惑に駆られるのですし、あるいは同じ理由で、どこか楽しい場所にレジャーに出かける誘惑に駆られることもあるのではないでしょうか。礼拝を軽んじて現実の生活を大事にしようという誘惑です。

 

 まさにそこでこそ、私たちは今朝の御言葉の「聖家族の歩み」に倣う者たちでありたいのです。それは今朝の40節にこように記されていることです「(40)幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」。私たちはここでいったい何を見、何を知るのでしょうか?。それは「幼な子は(主イエスは)ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」という事実です。その背景には何があったでしょうか?。父ヨセフと母マリアの教育です。子育ての歩みです。まさにこの40節に「聖家族の歩み」の全てが凝縮されていると言って良いのです。

 

 そこで改めて私たちが顧みたいのが、今朝あわせて拝読した旧約聖書・イザヤ書1112節の御言葉です。そこにこうございました「(1)エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、(2)その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。この「エッサイの株から一つの芽が出る」とはクリスマスの出来事を現わしています。主イエス・キリストの御降誕の出来事です。そして「その根から一つの若枝が生えて実を結び、(2)その上に主の霊がとどまる」と言うのです。この「若枝」というのが少年時代の主イエスのお姿を現しています。まさに今朝のルカ福音書240節に即応する御言葉なのです。

 

 ここで大切なのは「生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」とあることです。大祭司シメオンと預言者アンナが語ったように、この幼子イエスはただの人間の子ではないのです。シメオンが語ったように「この幼子を信じる者は救われる」のです。このかたこそは永遠なる神の独子であられ、私たち全ての者の救いのために人となりたまいしキリストだからです。そしてこのキリストは、今朝の御言葉の段階ではまだ幼子であられますけれども、既に全人類の救いのための十字架への道が始まっているのです。それこそカール・バルトが語ったように「幼子イエスの向こう側に十字架が立っている」のです。まさにそのことを預言者アンナも語ったのでした。言い変えるならば「この幼子は十字架におかかりになるために生れて下さったキリストである」という事実です。そして「聖家族の歩み」とは、まさにその「十字架におかかりになるために生れて下さったキリスト」に堅く寄り添う歩みであったということなのです。だから聖家族の生活の中心は礼拝でした。「礼拝か、実生活か」という二者択一なんかではない、まず礼拝ありてこそ実生活が成立つのです。逆に、礼拝の無い実生活は虚無でしかないのです。

 

まさにその大切なことを常にわきまえ、主なる神の御前に礼拝者として歩み続けたのが「聖家族の歩み」でした。ひるがえって、私たち自身の生活が問われているのではないでしょうか?。私たちもまた、いつもこの聖家族のような歩みをしているであろうか。自分自身に深く問わねばなりません。「幼子イエスの向こう側に十字架が立っている」のが私たちにも見えているでしょうか?。そして、その十字架の主イエス・キリストを常に信ずる者として、主に贖われた神の民として、現実の生活を歩んでゆく私たちであり続けたいと思うのです。その私たちの歩みは「聖家族の歩み」に繋がっています。私たちもまた「聖家族の歩み」を歩み行く主の僕たちとされているのです。そのことを感謝し、正しいキリスト告白に常に生きる僕たちとして、新しい一週間の歩みもまた、礼拝者の歩みであり続けて参りたい。そのようにしてこそ、私たちの現実の歩みもまた、永遠なる御国へと繋がるものとされるのです。祈りましょう。