説    教     ホセア書141節   ルカ福音書23335

               「母マリアへの託宣」 ルカ福音書講解 (4)

               2020・01・26(説教20041840)

 

 「(33)父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。(34) するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―― (35)そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。これが今朝、私たちに与えられたルカ福音書233節から35節の御言葉です。

 

先週の礼拝において、私たちは25節以下の「シメオンの讃歌」について読みました。生まれて8日目に神に祝福して戴くために、ヨセフとマリアは幼子イエスを連れてエルサレム神殿に参りました。そのとき大祭司シメオンが幼子イエスを抱いて歌い上げた讃美告白の言葉が、先週の32節までのところに記されていた「シメオンの讃歌」でした。そこで今朝の33節を見ますと、この「シメオンの讃歌」が歌い上げられたことについて、ヨセフとマリアは「父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った」と記されています。

 

この「不思議に思った」というのは疑問を抱いたという意味ではなく、大祭司シメオンと同じ思いを持って、同じ信仰をもって、幼子イエスを神から賜わった全人類の救い主として受け止めたという意味です。ですからこの「不思議に思った」という言葉にはヨセフとマリアの信仰が現れているのです。まさにこのヨセフとマリアの信仰を見てこそ、大祭司シメオンは34節以下に、特に母マリアにこのように告げたのでした。「(34) するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―― (35)そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。

 

 ここでひとつの場面を考えて戴きたいのです。もし私たちの誰かが、ご自分の子供やお孫さんを神殿に(神社ではありませんよ)教会に、祝福を受けるために連れて行ったとします。そのときその教会の牧師先生から「ああ、なんていうことでしょう!。この赤ちゃんはたいへん悲劇的な、辛い人生を歩む者として定められています。そしてあなたご自身も「つるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」と告げられたら、どのように思うでしょうか。どのように感じるでしょうか。

 

 まさにそれと同じことが、それと同じ場面が、ここにはっきりと描かれているわけです。大祭司シメオンはヨセフとマリアの信仰を見て、その上でこそマリアにこのように告げました。「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています」。この「ごらんなさい」とは「あなたの心にしっかりと刻みなさい」という意味です。この赤ちゃんは、幼子主イエスは、神が全世界の救いのためにお遣わし下さった永遠なる神の独子であられるのだ。なせらばこのかたは、私たち全ての者を罪と死から救うために、十字架への道を歩んで下さるかた、すなわち神が遣わしたもうたキリスト(メシア=救い主)であられるからだ。そのことをいま「あなたの心にしっかりと刻みなさい」と、シメオンはマリアに語り告げたのです。

 

では、どうして、幼子主イエスがそのような過酷きわまりない十字架への道を歩むかたとして「定められている」のでしょうか?。その理由として今朝の35節は「それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」と言うのです。ここで「多くの人」とあるのはヘブライ語独特の表現で「すべての人たち」という意味です。私たち人間の、全ての者たちの心の中にある「思い」が「現れるようになるため」に、そのゆえにこそこの幼子主イエスは、十字架への道を歩んで下さるかたなのだと告げられているわけです。そこで問題は、この「多くの人の心にある思い」とはいったい何であるかということです。

 

 実はその「思い」とは、私たちが誰でも必ず心の中に隠し持っている「罪の思い」を示しているのです。「罪による意思」と言い変えても良いでしょう。私たち人間の心の奥深くには、誰しも例外なく、必ず「自分が神になりたい」という、とんでもない思いが、欲望が、潜み隠れているのです。自己絶対化、自己神格化への欲求です。こういうことを聞きますと、皆さんは誰しも「いやいやとんでもない、私は生まれてこのかた一度たりとも、そのような不遜な欲求を心に抱いたことはない」と思うかもしれません。ある意味でそれは事実でしょう。少なくとも私たちの日常の意識のレベルでは、私たちは「自分が神になりたい」などと思うことはまずないからです。

 

 しかし、今朝の御言葉には何とありますか?。35節には「それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」とあるのです。この「多くの人の心にある」とは「全ての人の心に潜み隠れている」という意味の言葉です。神に対する罪は私たちにはわからないのです。見えないのです。認識不可能なのです。それはちょうど、真っ暗な部屋の中にいる人が自分の姿も見えないのに似ています。しかし、その真っ暗な部屋の中に光が灯れば、あらゆるものが見えるようになります。そしてまさに主イエス・キリストは、ヨハネがヨハネ伝19節で語り告げているように「すべての人を照らすまことの光」として世に来られたかたなのです。

 

 それならば、幼子として主イエス・キリストが世に来て下さったこと、お生まれ下さったクリスマスの出来事によって、まさしく私たち全ての人間の心の中に潜み隠れていた「罪の思い」が白日のもとに晒されることになったのです。それが「多くの人の心にある思いが、現れるようになるため」とあることの意味です。そういたしますと、どのような反応が私たちの中に「現れる」のでしょうか?。私たちはそれを喜ぶでしょうか?。自分でも意識さえしていなかった「罪の思い」が白日のもとに晒されることを喜び感謝する人がどれだけいるでしょうか。むしろその正反対に、私たちはそこでこそ主イエスを恨み、憎み、攻撃し、あるいは退け、排斥しようとするのではないでしょうか。

 

 私たちは聖書の中に、このルカ伝の中にさえ、まさに全ての人の心の中に潜み隠れた「罪の思い」が一挙に噴き出した瞬間があることを知っています。それは何かと申しますと、主イエスが十字架を担われて、ゴルゴタの丘に続く「悲しみの道」(via dolorosa)を歩まれた時のことです。私たち全ての者の罪を担われて、主イエスがゴルゴタへの道を十字架を担って歩まれたとき、沿道を埋め尽くすばかりに集まってきた群衆は、主イエスに向かって怒りの拳を振り上げ、手にした石を投げつけ、唾を吐きかけ、呪いと侮辱の言葉を口にし、主イエスに向かって「十字架にかけろ!」と叫んだのでした。それは全て、主イエスの来臨によって、全ての人の心の中に潜み隠れた「罪の思い」が一挙に噴き出したからです。自分たちのいちばん醜い姿を見せられた群衆は、いわば主イエスに向かって「逆切れ」したのです。このような者を生かしてはおけない、容赦できないと感じたのです。なぜなら「自分が神になりたい」という「思い」こそ、全ての人間の心の中に潜み隠れた「罪の思い」だからです。それを否定する者は許せなかったのです。

 

 主イエスは、まさにそのようなエルサレムの群衆、否、私たち全ての者のその「罪の思い」を十字架において担い取り、そしてゴルゴタへの道を黙々と歩まれ、ご自分の全てを献げて父なる神の御前に、私たち全ての者の罪を執成して下さったのです。「私がこの者たちの恐ろしい罪の身代わりとして十字架に死にますゆえ、どうぞ父なる神よ、この者たちの罪を私の死に免じて赦してやって下さいませ」と祈って下さったのです。それが主イエスの十字架による罪の贖いの出来事です。

 

 大祭司シメオンは、その十字架を思い描いたのです。神によって十字架を示されたのです。そうだ、この幼子イエスは、全人類の罪と死を担って十字架におかかりになり、そのようにして私たち全ての者たちの贖いとなって下さり、救いを与えて下さるために、神が世にお遣わしになったキリスト(メシア=救い主)でありたもうのだ。その思いが強く鋭く胸に迫りまして、そこでこそ母マリアに託宣を告げるのです。託宣というのは神から託されたメッセージのことです。35節の前半の言葉です。「そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」。

 

 母マリアよ、あなたはこの幼子がやがて立派に成長し、全ての人々の「罪の思い」を担って十字架におかかりになる、その痛ましきお姿を見ることになるでしょう。それは譬えて言うなら、あなた自身の胸が剣によって刺し貫かれるようなものだ。そのようにシメオンはマリアにはっきりと告げたのでした。そしてマリアという人の素晴らしさは、このような痛ましい言葉、シリアスな託宣を全て心に留め、生涯の中で繰返し心に噛みしめていたことです。それは同じ251節の「母はこれらの事をみな心に留めていた」という言葉にもあらわれています。最後になりますが、これはどういうことかと言いますと、託宣というのは実は礼拝説教のことなのです。つまり、母マリアという人は、礼拝説教において語られた神の言葉を、福音の宣言を「みな心に留めていた」人であったということです。ここに、マリアという人の生涯の様子がよく現されているのではないでしょうか。

 

 どうぞ覚えて下さい。「託宣」は礼拝説教のことです。大祭司シメオンはまさにマリアに、ヨセフに、ここに集う私たち全ての者たちに、福音の言葉を語り告げています。それをいまここで私が取り次いでいます。この福音の言葉を聴いて信じるものは必ず救われるのです。もはやその人は心の中に潜み隠れた「罪の思い」によって生きるのではなく、自分を神とするのではなく、まことの主なる神を愛し、主なる神を礼拝し、神の生ける真理の御言葉によって新たにされ、養われて、聖なる公同の使徒的なる教会の一員となり、神の僕、キリストの弟子、聖霊の器となって、永遠の御国への道を歩む者とならせて戴けるのです。十字架の主イエス・キリストこそ、十字架の主イエス・キリストのみが、私たち全ての者の永遠の救い主であられるからです。祈りましょう。