説    教     イザヤ書5210節   ルカ福音書22532

              「シメオンの讃歌」 ルカ福音書講解 (3)

               2020・01・19(説教20031839)

 

 「(25)その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた」。今朝、私たちに与えられたルカ福音書225節以下は、このような書出しで始まっていました。幼子主イエスを祝福して戴くために、ヨセフとマリアが遠い旅をしてエルサレム神殿にやって来たとき、そこにシメオンという名の年老いた大祭司が神に仕えていたのです。このシメオンは「正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた」とあります。この「正しい信仰深い人」というのは「神に対して裏表なく真実である人」という意味の言葉です。だから「聖霊が彼に宿っていた」というのです。

 

 そして御言葉は26節以下に続きます。「(26)そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。(27)この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、(28)シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った…」。私たち人間にとって、最大最高究極の「願い」はいったい何でしょうか?。私たちにいろいろな見解があると思いますが、しかし聖書が明らかにしていることに従うなら、それは「いつの日にか私の救い主であられるまことの神にお目にかかりたい」ということなのです。それこそが人間としての、私たちの最大最高究極の願いなのです。

 

 大祭司シメオンは、まさにこの究極の願望を抱いて生きていたと同時に、その切なる願いに対して「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた」人でした。実はここに、私たち人間の最大の喜びと幸いがあるのではないでしょうか。「あなたは生きている間に、必ず、あなたの救い主であられるまことの神にお目にかかることができるのだ」と、聖霊なる神みずからがシメオンに約束して下さったことです。神の約束なのですから、これはもう絶対に裏切られることはないのです。必ず実現するのです。現実のものになるのです。ですからシメオンという人は、人間としての最大最高の喜びと幸いを神から与えられた人です。

 

 そして実は、その喜びは、ここに集うている私たち全ての者にも、同じように与えられているものではないでしょうか。たとえ私たちがそれを意識していても、していなくても、主なる神は、私たち人間の最大最高究極の「願い」をこそ、私たちの人生において実現して下さるかたなのです。ですから今朝のこの御言葉におけるシメオンの喜びと幸いは、ただ2020年前の昔にこのような不思議なことがあった、というだけの出来事ではないのです。それはまさに今ここにおいて、私たち全ての者に主なる神が現わして下さり、実現して下さるところの喜びであり幸いなのです。

 

 ところでシメオンという人は、さだめし苦労の多い人生、試練多き人生を歩んできた人ではなかったかと想像されるのです。それは25節にあるように、彼が「正しい信仰深い人」であったからです。人間中心の欲望が支配するかに見えるこの世において、もし私たちが「正しく信仰深く」生きようとするなら、それは譬えて言うなら川の流れに逆らって舟を漕ぐようなもので、多くの苦労や試練に晒されるのではないでしょうか。しかしシメオンという人は、苦労が多ければ多いほど、試練に晒されれば晒されるほど、主なる神の確かな約束を待ち望んで、神の僕として忠実に、裏表なく生きてきた人でした。それが「正しい信仰深い人」という言葉に示されているシメオンの人生なのです。

 

そこで、今朝の227節以下を読みましょう。「この人(シメオン)が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、(28)シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、(29)「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。(30)わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。先ほど、この礼拝の初めの讃詠として560番を歌いました。もう皆さんおわかりのように今朝のこの御言葉が歌詞です。スコッティッシュ・チャントと言いまして、スコットランド国教会でよく歌われる讃詠(ドクソロジー)です。チャントというのは「讃美歌」という意味です。讃美歌なのですから、皆さんチャント歌いましょうね。()

 

 この讃詠560番について、私は個人的な思い出があります。私が高校2年生のときに洗礼を受けた時、クリスマス礼拝でしたが、そのときに礼拝の最初に歌われたのがこの560番のスコッティッシュ・チャントでした。そのとき以来、これは私の愛唱讃美歌のひとつになりました。2020年前のシメオンの喜びと幸いが、このチャントを通して私たちに伝わってくるのではないでしょうか。まさにその喜びと幸いが、いまここにおいて私たち全ての者にも与えられていることが、理屈を抜きにして伝わってくるのではないでしょうか。

 

 まことに、シメオンはこのように歌い上げたのです。「(28)シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、(29)「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。(30)わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。昔から伝わった諺に「朝に教えを聴かば夕べに死すとも可なり」というものがあります。私が仏教学とサンスクリット語を学んだ花山信勝先生によれば、この諺を最初に用いた人は浄土真宗の開祖・親鸞上人であったそうです。「朝に教えを聴かば夕べに死すとも可なり」。なぜでしょうか?。それは、ここには私たち人間にとって最大最高かつ究極の喜びと幸いがあるからです。否、そればかりではありません。ここにこそ全世界の救いの確かな約束があるからです。だからこそシメオンは30節に「(30)わたしの目が今あなたの救いを見たのですから」と言いました。そして31節には「(31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」と讃美したのです。

 

 「わたしの目が今あなたの救いを見た」この言葉以上に喜びに満ちた表現がどこにあるでしょうか?。紛れもなく、いまこの私のこの目が、いまあなたが全世界に与えて下さった「救い」を見たのです。シメオンははっきりとそのように歌い上げています。告白しているのです。ですからこの29節以下は「シメオンの讃歌」と呼ばれますけれども、実はシメオンの信仰告白であると言って良いのです。幼子主イエスを腕に抱くことができたシメオンの喜びと幸い、それは同時に、ここに集う私たち全ての者に与えられた喜びと幸いなのです。それこそが、この現実世界を救う福音の到来を告げるものなのです。

 

 ヨハネはヨハネ福音書19節において、この出来事を「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と語り告げました。私たちの罪による歴史の闇の中に「全ての人を照らすまことの光」が輝いたのです。そして今朝あわせて読みましたイザヤ書5210節をも改めて心に留めましょう。「(10)主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る」。神が現わしたもうた「聖なるかいな」の「かいな」とは右腕のことです。ヘブライ語で言うならベニヤミン(בִּנְיָמִין)です。これは「祝福の右手」「救いの御腕」とも訳されます。主なる神ご自身がその「救いの御腕」を全世界の人々に「あらわして」下さった。それこそが幼子として主イエス・キリストが世にお生まれ下さった出来事なのです。

 

 だから「地のすべての果は、われわれの神の救を見る」のです。永井修先生の著書の題名を借りて言うならば「地の果てまで」「われわれの神の救いを見る」のです。この「地の果てまで」というのは「この最後の者にも」(マタイ20:14)ということです。主は「この最後の者」つまり、人間的な目で見るのなら、救いから最も遠く離れていたように見える者をも、御心にかけていて下さるのです。否、そのような者をこそ、尊き救いへと招き入れて下さるのです。

 

それが、シメオンの讃歌に現された救いの喜びであり、その喜びをこそいま、私たちは「見る」者たちとされているのです。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。(30)わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。祈りましょう。