説    教   出エジプト記1312節  ルカ福音書22224

              「聖家族のエルサレム上京」 ルカ福音書講解 (2)

               2020・01・12(説教20021838)

 

 「(22)それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。(23)それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、(24)また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった」。今朝、私たちはこの御言葉を福音として与えられています。

 

今朝の説教題を聖家族のエルサレム上京」といたしました、「聖家族」というのはヨセフとマリアと幼子イエスのことをさす言葉です。もし人間的に見るならば、この世の中の片隅の、本当に弱く小さな家族にすぎません。生まれて8日目の幼子をかかえた夫婦が、この幼子の命名と祝福のためにガリラヤのナザレから遠くエルサレムに上京して、そこで我が子を「主にささげ」祝福して戴き、そして「犠牲をささげる」のです。献げる犠牲は「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と決められていました。これは、今朝あわせて拝読した出エジプト記1312節の御言葉にある律法の定めによることでした。

 

 「(1)主はモーセに言われた、(2)「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。これはどのような規定かと言いますと、私たちの存在は自分自身が根拠なのではなく、永遠なる神の愛と御心が根拠なのだということを現わしているのです。ですから英語で「私はいついつ生まれた」というのを“I was born in…”と表現します。ドイツ語でも同じです。“Ich wurde geboren an…”です。直訳するなら「私は生まれさせて戴いた」ということです。受動態なのです。これはヘブライ語から、つまり旧約聖書以来の伝統に従っての表現です。私たちの存在と人生は、カルヴァンが語っているように、私たち自身の所有物ではなく、主なる神が永遠の聖なる御旨によってお定め下さったのです。全ての存在者が神の愛したもう「かけがえのない」存在なのです。

 

 今から3年余り前、津久井の「やまゆり園」という障碍者施設で、当時介護職員であった人物によって19名もの入園者が殺害されるという痛ましい事件がありました。昨今の裁判の様子を注目している人も多いのではないでしょうか。しかし私はあの事件でどうしても引っかかることがあるのです。それは、あの元介護職員であった男の差別意識は当然問題にされているのですが、その反面、日本の法律の中に根本的に潜む差別意識については誰一人として問題にもせず疑問視すらされていないということです。日本の法律が「重度障碍者も健常者と同じ“かけがえのない”人格である」と考えていないからこそ、あの裁判でいろいろおかしなこと、納得できないこと、理不尽なことが、たくさん起こってきているのではないでしょうか。人間の価値が身体的・社会的な機能だけで測られている現代の価値観こそ、実は最も大きな問題なのではないでしょうか。

 

 どうして旧約聖書の律法の規定で、生まれて8日目の幼子のために「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」という「犠牲」を主なる神に献げることが求められているのか。その根本的な理由こそ、まさにいま申した事柄に関わるのです。それは、この幼子が、そして私たちが、全ての人間が、この世に生れさせて戴いたのは、それは自分が主になるためではないということです。主なる神の永遠の愛と御旨が私たちの存在の根拠なのです。だからカルヴァンが語るように、私たちの人生の目的は「汝の主なる神を知り、救い主なる神を愛し、永遠に神を讃美すること」にあるのです。そのための犠牲なのです。自己目的的であり自己中心でしかない人間の自然性に対する「否」が叫ばれているのです。自己目的的ではなく自己中心ではない「かけがえのない」人生を歩むためには犠牲が必要なのです。

 

このあたりのことは昨年の9月に急逝した私の同級生・大住雄一君がよく語っていたことでした。大住君は東大の法学部を首席で卒業して神学校に入り、牧師となり、東京神学大学の学長を務め、旧約聖書神学、特に申命記法の研究家として世界の第一人者であった人ですが、旧約の申命記法の最大の特徴は、人間の自然性に対する徹底的な「否」であったと語っています。人間の自然性というのは「罪」の別名なのです。そして罪の支配下にある限り、人間には本当の自由と幸いは無いのです。だからそのような旧約聖書的な律法の伝統を受け継ぐことが大切なのです。それが無いところでは、人間存在の「かけがえのなさ」はついに絵に描いた餅に終わってしまうのではないでしょうか。

 

 このことと密接に関連して、私たちが今朝のルカ伝222節以下の御言葉において深く心に留めたいことがあります。それは、改めて2223節を読みますと、その最初は「それは」という言葉で始まり、そして23節の最後には「犠牲をささげるためであった」と記されているのです。これは、主イエス・キリストの御生涯そのものを私たちに示しているのです。主が人となられて、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったのは、あのクリスマスの出来事は「それは」私たち全ての者の「罪」のために、私たち全ての者の救いのために「犠牲をささげるためであった」のです。

 

 そして、その場合の「犠牲」とは何でしょうか?。「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」でしょうか?。そうではありません。それは本質を示す影にすぎません。では本質はどこにあるかと言いますと、それは御子イエス・キリストご自身なのです。主が私たちの「罪」のために担って下さった十字架なのです。すなわちガラテヤ書31314節にこのように示されているとおりです。「(13)キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。(14)それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」。主イエス・キリストは、私たち全ての者の「罪」の贖いの犠牲となられるためにお生まれになったかたなのです。主はご自分を犠牲として献げるためにお生まれ下さったかた、神の永遠の御子キリストなのです。

 

 この御子イエスを信ずる者は、もはや人間の自然性()の支配のもとにあるのではないのです。もちろん、私たちには人間として様々な弱さや脆さや不完全さがあるのですが、それにもかかわらず、十字架の主イエス・キリストを信じて生きるとき、つまり、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なって歩むとき、私たちはもはや罪の支配のもとにあるのではなく、キリストによる神との永遠の平和をえた者として、新しい救いの約束のもとに生きる僕とされているのです。それが、私たちが洗礼を受けてキリスト者になるということです。ですから洗礼を受けることは死から生命に甦らせて戴くことです。ただの生命ではなく、神が御子イエス・キリストの贖いの犠牲によって与えて下さる永遠の生命です。人間の自然性に、罪の支配に打ち勝つ唯一の真の生命です。

 

 今朝の御言葉、ルカ伝222節から24節は、まさにその素晴らしい恵みを私たちに語り告げているものなのです。その復活の恵み、救いの喜びを、続く225節以下においてシメオンが讃歌として歌い上げました。それは文語訳で読みますならこのような讃歌です。「(29)主よ、今こそ御言に循ひて、僕を安らかに逝かしめ給ふなれ。(30)わが目は、はや主の救を見たり。(31)是もろもろの民の前に備へ給ひし者、(32)異邦人をてらす光、御民イスラエルの榮光なり』」。まさにこの恵みが、この祝福が、この幸いが、私たちと共にあるのです。祈りましょう。