説    教      詩篇11519節   ルカ福音書221

               「主イエスの命名」 ルカ福音書講解 (1)

               2020・01・05(説教20011837)

 

 新しき主の年2020年の最初の主日礼拝を迎えました。私たちはこの新しい一年も、絶えず御言葉に養われつつ、主イエス・キリストのみを唯一のかしらとする聖なる公同の使徒的なる教会、聖徒の群れへと成長して参りましょう。

 

 この新しき2020年の年頭にあたりまして、私たちは新たにルカ福音書の連続講解説教を通して、共に福音の御言葉を聴いて参りたいと思います。今日はその第一回目の説教です。そこで今朝、私たちが与えられたのは、ルカ福音書221節の御言葉です。「(21)八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」。

 

 皆さんは正月元旦(11)がキリスト教の教会暦(教会の暦)ではどのような意味を持つかご存知でしょうか?。私たち改革長老教会では余りそうしたことに関心を持たないのですが、たとえばドイツの福音主義教会、ルター派の教会などに参りますと、正月元旦(11)は「主イエス命名の日」とされています。ローマ・カトリックやアングリカンの教会などでも11日の礼拝が「主イエス命名の日」の礼拝(ミサ)として献げられます。東方正教会では「主神我が救世主イイススハリストスの肉身の割禮祭」と呼ばれています。ずいぶん長い礼拝が文語文で献げられます。たとえばこのような祈りが延々と2時間も続くのです。「我等は人と為りし神言の肉體の割禮及び大ワシリイの記憶を尊みて、生神女を崇め讃む」。こうしたことは、意外に私たちには知られていないことではないでしょうか。

 

 その根拠となったものこそ今朝のルカ福音書221節の御言葉なのです。「(21)八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」。ここに「八日が過ぎ」とありますが、主イエスがベツレヘムの馬小屋に御降誕せられたのが1224日の夜のこととして、その「八日が過ぎ」た日つまり一週間後は、まさに正月元旦(11)になるのです。もちろん私たちはローマ・カリックや正教会と同じような意味では「主イエス命名の日」の礼拝を献げませんけれども、しかし主イエス命名の日の意味を御言葉によって深くとらえることは、やはりとても大切なことではないでしょうか。年頭にあたって私たち一同に与えられた大きな恵みがここにあるのです。

 

 「(21)八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」。クリスマスの喜びはすぐに、ユダヤの王ヘロデがもたらした人間の罪の現実の恐ろしさに晒されることになりました。直前の20節を見ますと「(20)羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」とあります。羊飼いたちはベツレヘムの馬小屋から去って「神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」のです。東方から来た三博士たちも同じように「(マタイ2:12)夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った」のです。それは私たちも同様です。クリスマス礼拝を献げたあとで、いつまでも教会に残っていたわけではありません。私たちも同様に「神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」のです。あとには聖家族だけが残されました。生まれたばかりの幼子イエスと、父ヨセフと、母マリアの3人だけが残されたのです。

 

 その聖家族たちは、自分たちに差迫る大きな危険の中で、旧約の御言葉に従って、なすべきことを全力で、心をこめて果たします。それこそ、エルサレムに行って、マリアから生まれた幼子を聖別して戴くことでした。具体的に申しますなら、この幼子に、神の御子に、他の子供たちと同じように名前をつけ、八日後の割礼を受けさせることでした。それは創世記17章のアブラハム契約に基づいています。主なる神はアブラハムに対して、今後、生まれてくるイスラエルの全ての幼子に「八日目に割礼を受けさせる」ことをお命じになったからです。

 

 これは、どういうことでしょうか。まず、神にはお名前がないはすです。意外に思われるでしょうか?。神は名前が無いからこそ神なのです。いや「神」という名前があるではないかと私たちは思うかもしれません。しかしそれは名前ではなくて称号(称名)すなわちタイトルです。指示代名詞です。神には苗字も名前もなく、誰の誰兵衛という名前も無いからこそ「神」と呼ばれるのです。だからこそ出エジプト記313節以下にはこのように記されています。「(13)モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。 (14)神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

 

 この「私は在りて在るものである」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה [ehyeh ăšer ehyeh])というヘブライ語が旧約聖書に6859回出てくる「主」または「神」という言葉の元々のヘブライ語“ヤーウェ”(アドナイと読みます)の語源となり、そのアドナイに母音記号をつけると“イェホーヴァ”になるため、文語訳の聖書では「エホバ」と訳されているわけです。改めて申しますが、この「エホバ」というのは神の名前ではなく称名(ホーリータイトル)です。本来は名前などでは呼びえない神聖な神の御名を、神みずから私たちに「ヤーウェ」「イェホーヴァ」すなわち「主」また「神」と称名しなさいと教えて下さったのです。神ご自身には私たちと同じような名前は無いのです。さらに申しますなら、名前というのは親が子に付けるものですね。主なる神は永遠なるかたであり、親はないのです。まさに「在りて在るもの(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)=全ての存在をして存在あらしめたもうかた」なのですから、名前というものは無いのは当然なのです。

 

 それならば、主イエス・キリストは永遠なる神の永遠の御子なのですから、主イエス・キリストにも名前が無いのが当然なのではないでしょうか。ニカイア信条の告白の言葉で申しますなら「主はすべての時に先立ちて、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られ」たのですから、本来的本質的に言いますなら主イエスには名前は無いのが本当なのです。父なる神と同質であられる御子なる神にはキリストという称名(ホーリータイトル)だけで十分なはずなのです。

 

 ヨセフもマリアも、自分たちの子としてマリアより産まれたこの幼子が、自分たちの子であって実はそうではなく、神の御子としてお生まれになった救主キリストであられることを知っていました。この幼子が神の御子であると信じていました。それなのに彼らは律法の定めに従って「八日目に割礼を受けさせ」るために、あらゆる危険の渦巻く中を、わざわざ遠く離れたエルサレムまで、この幼子を連れてやって来たのです。このあたり今朝のルカ伝221節は実に淡々と記していますが、これは大変なことではなかったでしょうか。どうしてヨセフとマリアは、大きな危険を冒してまで、この幼子に名前をつけるためにエルサレムに来たのでしょうか?。

 

 その理由はただ一つであったと思います。それはこの幼子に与えられた「イエス」という名前が、人間の思いや計画に由来するものではなくて、神のなされる永遠の救いの御意志と御計画に基づくものであったからです。そのことは今朝の21節に「(ヨセフとマリアは)受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」とあることにはっきりと現れています。そのくだりを私たちは同じルカ伝の131節以下に読むことができます。

 

(1:31)見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。(32)彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、(33)彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

 

 これは処女マリアに対する天使ガブリエルの告知(受胎告知の言葉)ですが、これと同時に私たちはマタイ伝120節と21節に、同じ天使ガブリエルによるヨセフへの告知を読むことができます。

 

(20)(ヨセフ)がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。(21)彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

 

 ここには何と告げられていたでしょうか。まずマリアに対しては「その子をイエスと名づけなさい。(32)彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、(33)彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」と告げられていました。この「大いなる者」「いと高き者の子」というのは「父なる神と本質を同じくするかた」という意味です。この幼子は「人としてお生まれになられる永遠の神の御子」であられると告げられていることです。そして「父ダビデの王座」とは全ての人を救う救いの御力(権威)をあらわし「ヤコブの家を支配し」とは十字架の贖いの恵みをあらわし、そして「その支配は限りなく続く」とは、旧約・ダニエル書626節以下にあるように「彼は生ける神であって、とこしえに変わることなく、その国は滅びず、その主権は永遠に続く」ことを現します。だからこそ「その子をイエスと名づけなさい」と告知されているのです。

 

 ヨセフに対するガブリエルの告知も、それと同じでした。「彼女(マリア)は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と告げられたのです。特に大切なのは「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」とあることです。

 

イエスという名はヘブライ語で「救い主」を意味するヨシュアなのです。ヘブライ語ではイェシュア(יֵשׁוּעַ)と発音します。旧約にヨシュア記というのがありますがあのヨシュアと同じ名前です。このイェシュアのギリシヤ語読みがイエースースであり、そのイエースースを中国語で「耶蘇」という漢字で書くとその発音は「ィエスゥ」となるのです。この中国語の読みかたを日本語の聖書は受け継いでいるわけです。ィエスゥでも、イエスでも、イエースースでも、ジーザスでも、イェズーでも、イイススでも、全て同じです。元はイェシュアというヘブライ語の名前です。その意味は「救い主」なのです。これが大切なことです。

 

 今日は新年最初の主日礼拝ですが、私たちがこの「救いの御名」を知る者とされていること。このかたの御名によって祈り、このかたの御名によって救われ、このかたの御名によって生きる神の僕たち、御国の民とされいること、これ以上に「めでたい」ことはないのではないでしょうか。主イエス・キリストは、私たち全ての者の永遠の救い主として人となられ、イエス(救い主)という名を持つ唯一のかたとして世にお生まれ下さり、私たちのために十字架への道を歩まれ、救いを完成して下さったのです。祈りましょう。