説    教      イザヤ書269節   ピリピ書423

               「主の恵み汝等の霊と共に」 ピリピ書講解(48)

               2019・12・29(説教19521836)

 

 「(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。この祝福の言葉をもって、ピリピ人への手紙はしめくくられています。ここには使徒パウロの、愛するピリピの教会の、全ての人々に対する祈りの全てがこめられていると言えるでしょう。いままでこのピリピ書において様々なことが語られてきましたけれども、その集大成の言葉こそ、この423節であると言えるのです。そして私たちはこのピリピ書の最後の祝福の言葉を、2019年最後の主日礼拝において共に聴けることを、主なる神に感謝するものであります。

 

 話は変わりますが、一昨日の金曜日の祈祷会において、ダニエル書628節を学びました。「こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた」という御言葉です。これもまたこの一年をしめくく祈祷会の御言葉としてふさわしいものでした。「去年今年貫く棒の如きもの」という高岡虚子の句があります。イスラエルの預言者ダニエルは紀元前6世紀のバビロン捕囚の激動の時代にあって、まさに「貫く棒の如き」ひとすじの御業に生きた神の僕でした。

 

 国家の名前は、バビロニア王国から大バビロニア帝国、そしてペルシヤ王国から大ペルシヤ帝国へと変わりました。王もネブカデネザルからベルシャザル、そしてダリヨスからクロスへと変わりました。しかしどのような激動の時代の渦中にありましても、預言者ダニエルの務めは少しも変わりませんでした。それは天地万有の創造主なる真の唯一の神に仕え、神の御言葉に養われ、神の御言葉のみを全ての人々に宣べ伝えることです。そして主なる神の御名のみを崇め、真の礼拝者として生きる、イスラエルの聖なる会衆を、聖なる公同の使徒的なる真の教会を、この地上に、この歴史の中に建ててゆくことです。

 

 それは全く、いまの私たち一同に与えられている務めそのものではないでしょうか。まさに「去年今年貫く棒の如きもの」を私たちもまた、神の御手から与えられているのではないでしょうか。その務めを歴史の中にあって果たさんとする私たちに、いちばん必要なものは何か。それこそ御子なる主イエス・キリストと聖霊によって、主なる神から私たちに与えられるあの祝福ではないでしょうか。「(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。これこそいま、今年最後の礼拝を献げ、新たなる主の年2020年を迎えんとする私たち一人びとりに、最も大切なもの、最も必要なものとして、主なる神が与えて下さる大いなる祝福なのです。

 

 私は学生時代、東京の池袋に下宿しておりました。今ではどうなっているのか知りませんが、当時の池袋駅の東側はまだ混沌雑然とした雰囲気で、その一角に「世界劇場」という映画館がありました。名前こそ怪しいのですが300円でロシア映画の名作を観せてくれる、貧乏学生には有難い映画館でした。トルストイ原作、セルゲイ・ボンダルチュク監督の「戦争と平和」を観たときは、夕方の6時頃に映画館に入って、終わって出たのがたしか夜中の1時ごろでした。それでも300円だったのです。

 

この「戦争と平和」の中にこのようなシーンがありました。西暦1805年のこと、ナターシャと婚約していた青年将校アンドレイがアウステルリッツの戦いに出征することになりました。ナポレオン率いる圧倒的に優勢なフランス軍とのこの戦いに、ロシヤ軍には十に一つの勝目もありませんでした。このアンドレイをロシヤ軍の総司令官バルクライ将軍が「父と子と聖霊の御名によりて、汝に神の守護あらんことを」と、アンドレイの肩に手を置いて祝福するのです。そして一声「ストバイ」と叫ぶのです。ロシヤ語で「行け」という意味の命令形です。祝福を受けたアンドレイは後ろを顧みることさえせずに出て行きます。神の祝福を受けるとはこういうことなのだと、そのシーンを観て感じさせられたことでした。

 

 私たちも、新しい年2020年の歩みへと、全能なる神の御名によりて祝福を賜わり、そして「ストバイ=行け」と聖霊によって押し出されて、世の戦いの中へと出てゆく僕たちなのではないでしょうか。使徒パウロはローマの獄中におりましたから、もちろんピリピの教会の人々を直接に祝福することはできません。しかし祝福はパウロから出るのではないのです。父・御子・聖霊なる三一の神から与えられるものなのです。それならば、祝福を祈るパウロがどこにいようとも、その祝福は必ずピリピの教会の人々に実現するものなのです。だからこそパウロは感謝と喜びと確信をもって祈ることができました。「(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と。

 

 今朝の423節の文語訳聖書では今日の説教題と同じ「願くは主イエス・キリストの恩恵、なんぢらの霊と偕に在らんことを」です。口語訳の文章と意味の上では大きな違いが無いのですが、微妙なニュアンスの相違はやはりあるのだと思います。比較すれば文語訳のほうが原文の意味をよく現わしていると思います。しかし、そのような中で「主イエス・キリスト」と「霊」という文字だけは共通していることに注目しましょう。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。「願くは主イエス・キリストの恩恵、なんぢらの霊と偕に在らんことを」。これは小さなことではなく大きな意味があることです。言い換えるなら「主イエス・キリストの恵み」と私たちの「霊」、この2つが人生の本質だということを、この祝福の言葉がはっきりと物語っているのです。

 

 私たちは「主イエス・キリストの救い」または「主イエス・キリストによる祝福」と聴きますと、あんがい自分の中で器用にチャンネルの切替えをしていることはないでしょうか。「この祝福の言葉は、いまのこの私の現実の問題とは無関係のことだ」という勝手な思い込みを私たちはしてしまうのではないか。そうして自分の日常生活から聖書の御言葉を隔離してしまうのです。その危険が最も顕著に表れるのが、たとえば今朝のこの423節の御言葉ではないかと思うのです。「なるほど、ここには素晴らしい祝福の言葉が出てくる。しかしこの御言葉と私の今の現実の生活とは無関係だ」と読んでしまう危険です。御言葉と生活を切り離してしまう誘惑と言っても良いでしょう。御言葉とキリストの恵みを、自分とは別のもの、無縁なものとして捉えてしまう誘惑です。

 

 この誘惑は、実は私たち全ての者が陥るのです。例外はありません。悪魔はあらゆる手立てを尽くし、あらゆる機会をとらえて、私たちを神から引き離し、自分は救われるに値しないと思わせるからです。今日あわせて拝読したイザヤ書269節になんとございましたか?。「(9)わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである」とありました。私たちはちょうど、これとは正反対の考えかたをしてしまうのではないでしょうか。「主よ、わが魂は、私の霊は、あなたの救いとは何の関係もありません。だから、私の審きが私を救うのです」。これはニーチェの思想と同じです。神は死んだと嘆き、これからは自分が神に成り代わるほか自分を救う道は無いとニーチェは考えました。その結果は絶望でしかなかったのです。

 

 どうか気を付けましょう。正しく御言葉を読みましょう。イザヤ書269節はこうです。「(9)わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたのさばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである」。「わがうちなる霊は、せつにあなたを求める」です。救いはただ十字架の主イエス・キリストにのみあるからです。だからこそ、主なる神の審きは全世界に対する救いの御業です。十字架の主イエス・キリストによる全ての人の救いの出来事です。この救いが、神の審きが世に現れるとき「世に住む者は正義を学ぶ」のです。正義は、正しさは、私たちを救う救いは、ただ十字架の主イエス・キリストあることを学ぶのです。

 

 私たちはこの2019年の終わりにあたりまして、改めて、新しく、今日の祝福を戴いています。そしててその祝福の内に新しい2020年を迎えようとしています。「(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。主イエス・キリストは、ベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれになり、私たち全ての者の罪を担って十字架に贖いの死を遂げて下さいました。そして復活して天に昇られ、永遠に父なる神の右に座したもう救い主として、聖霊により、御言葉を通して、私たちのただ中に、私たちの現実の生活と人生のただ中に、救いを与えて下さるのです。私たちの霊が、私たちの全存在が、私たちの全生活が、今日の祝福と共にあり続ける幸いに、いま私たちは共に生きる者たちとされているのです。祈りましょう。