説    教      イザヤ書96節  ルカ福音書2812

               「キリストの御降誕」 2019年クリスマス礼拝

               2019・12・22(説教19511834)

 

 旧約聖書のイザヤ書96節に、このように告げられておりました。「(6)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」。クリスマスは、まさしくこの「ひとりの男の子」が、神の御子イエス・キリストが、私たち全ての者の救いのために与えられた日です。そのかたこそ「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」と言うのです。今日はこのクリスマス礼拝にあたりまして、私たちはこのキリストの御降誕の意味を深く教えられたいと願うものです。

 

クリスマスの出来事は、たいへん大きな危険の中で起こりました。身重になったマリアは夫ヨセフと共に、遠いガリラヤから旅をしてベツレヘムに来ました。この長旅のことだけを考えてみても、クリスマスにおける神のご計画は人間的な目で見るなら、いつどこで壊れてしまっても不思議でないものでした。臨月の妻を伴った長旅、ようやく着いたベツレヘムには泊まる宿屋さえありませんでした。それに加えて、当時のユダヤの王ヘロデはキリストが世に生れることを怖れて、ベツレヘム中の2歳以下の男の子を皆殺しにせよと命じました(マタイ21618)。御子イエス・キリストは、人間の敵意と殺意という罪の渦巻く世界のただ中にお生まれになったのです。

 

これは、光り輝くクリスマスのイメージとは、およそかけ離れたキリストの御降誕であったと言えないでしょうか。クリスマスの出来事は、私たち人間の罪の現実の世界のただ中に、つまり、暗黒のただ中に起こった救いの出来事なのです。このことをヨハネ福音書19節はこのように語っています「(9)すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。そして10節以下にはこのようにあります。「(10)彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。(11)彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(12)しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 (13)それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。

 

このクリスマスの出来事を、ひとりの神学者が、神が地上にお造りになった橋頭堡(きょうとうほ)に譬えました。神がなされる救いの御業という戦いの、勝利のための橋頭保です。戦いにおいてはいつでも、敵陣近くに戦いのための確かな拠点が造られねばなりません。その地点は敵の銃火に晒されるでしょうし、いつ敵に襲われるかもわらないようなところです。しかし、そこが根拠になってこそ戦いは進められるのです。ですから、この橋頭堡を造ることが勝利には絶対に必要なことなのです。クリスマスはまさにその橋頭堡です。これは人の目には弱そうに見えました。この世の片隅のようなベツレヘムの馬小屋に、飼葉桶の中に生れたもうた幼子イエス、これ以上に弱く見えるものはないかもしれません。しかし、この御子イエスがお生まれになったことこそ、全世界に対する救いの勝利の確かな徴なのです。この橋頭保ができれば、もう勝利は絶対に確実なのです。あとは、その勝利を拡げてゆくだけのことです。

 

まさに身を危険にさらすような方法で、救い主イエスはこの世に来られました。誰にも知られないような形で、いわば、この世に潜入して来られたのだと言ってもいいと思います。橋頭堡を造ったと言っても、その橋頭堡は波をかぶり、人々の中に埋もれてしまって、見えなくなってしまうような有様でした。救い主はまさにそのようなお姿で私たちのもとに来て下さったのです。人知れず、人の中に没した形で、全ての人の救い主が来られたということが、クリスマスの大切な音信であります。

 

救い主は、凱旋将軍のように、自分をきわ立たせて見せるような仕方で来られたのではありませんでした。そこに、この救いの意味がありました。救い主・御子イエスは全ての人々と、すなわち私たちと全く同じ立場に身を置かれ、私たちの罪を担って十字架に贖いの死を遂げて下さるために来られたかたなのです。私たちの歴史と生活のただ中に入って、私たちと全く同じものになり切って下さったかたなのです。他の人を救って自分も助かるというのではなく、他の人と全く同じになって、私たちのために十字架に死んで、永遠の救いを成就して下さったのです。御子イエスはこのように、私たち人間と全く違ったかた、神の永遠の御子でありながら、罪ある人間と完全にひとつになり、その罪の救いを完成するために来られたのです。

 

この御子イエスによる救いは、人々には簡単には理解されませんでした。それは、その内容が難しかったからではなく、人間が気がつかない、しかも、最も重要な救いであったからです。それは人間を罪から救う救いであったからです。そのためには、こういうクリスマスが必要であったのです。私たち人間は、思い上がっていて、罪のことなど深く考えようともしませんでした。少なくとも、それが何よりも重要であるとは思いつきもしませんでした。ましてその救いが、このような形で与えられねばならないとは考えてもみなかったのです。そこにも、クリスマスの暗さがあります。

 

チャールズ・ディケンズの小説に『クリスマス・キャロル』という物語があります。あの中に、スクルージという意地悪の主人が回心する場面が描かれています。自分の店の使用人にクリスマスの休みを与えることさえしぶったスクルージが、クリスマス・イヴに夢を観るのです。その夢の中で彼は、今までの自分の生活がどんなに罪深いものであったかを知らされます。そして悔改めて、晴れやかな思いでクリスマスの朝を迎えたと書いてあります。クリスマスには、このような悔改めが必要なのです。自分の罪を悔いることを知らないと、クリスマスの意味はわらないのです。罪を悔いて救われなければ、救い主が何のために来られたかがわからなくなるのです。クリスマスの本当の喜びは、十字架による救いの出来事とひとつなのです。罪の暗黒の中に与えられた「すべての人を照すまことの光」こそクリスマスの喜びなのです。

 

ルカによる福音書15章には「(7)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」と書いてあります。クリスマスの夜、天には輝く明るさがありました。それは、天に言いようのない「大きな喜び」があったからです。その喜びとは何でしょうか。それは、悔改める罪人のための喜びです。御子イエスは、私たち罪人の救いのために世にお生まれ下さったのです。この世界で最も暗く、貧しく、低く、惨めな場所に、ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶の中に、このかたはお生まれ下さったのです。私たち全ての者を救うために…。

 

だからこそ、私たちは今日この日、いまこそ、ベツレヘムの羊飼いたちと共に声高く讃美を歌います。今朝のルカ福音書220節を心に留めましょう。「(20)羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」。この明るい大きな喜びが、讃美の歌声が、勝利の栄光が、天にあると同時に、この世界のただ中に、私たちのただ中に、いま来ているのです。それがキリストの御降誕、クリスマスの出来事なのです。祈りましょう。