説    教       詩篇38節   ピリピ書42122

               「祝福の挨拶」 ピリピ書講解(47

               2019・12・15(説教19501833)

 

(21)キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。(22)すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく」。これが今朝、私たちに与えられた福音の御言葉です。

 

私たちは誰かに手紙を書くとき、その最後をどのような言葉で締め括るでしょうか。「それでは失礼いたします」「さようなら」「ご健康と益々の繁栄を祈念します」「草々」「かしこ」「乱筆乱文のほどお許し下さい」他にもいろいろあるでしょう。では使徒パウロはどうでしょうか?。パウロは愛するピリピの教会の全ての兄弟姉妹たちに宛てて書いたこの手紙の最後を「信仰の絆」と「祝福の祈り」で結んでいるのです。

 

そこで、まず「信仰の絆」について心に留めましょう。ピリピの教会の全教会員に対してパウロは「(21)キリスト・イエスにある聖徒(単数)のひとりびとりに、よろしく」と呼びかけています。ここで気を付けたいのは、この「聖徒」という字が単数形で書かれていることです。このことはパウロがこの挨拶の言葉を、通り一遍の決まり文句などではなく、ピリピの教会の具体的な一人びとりを「かけがえのない信仰の友」として覚えつつ「信仰の絆」を感謝していたことをあらわしています。

 

「聖徒」とは、主なる神によってこの世から選び分かたれ、キリストの十字架の血によって罪を贖われ、赦されて、新たにされ、神の家族・神の民とされた全てのキリスト者のことをさす言葉です。人間的に特別に優れた、完全かつ模範的なキリスト者だけを指すのではありません。実際にピリピの教会には、仲間割れや分裂を引きおこしてしまった婦人たち、病気のため働きを全うできなかった青年エパフロデトを責める人々、偽教師たちの語る間違った教えに惑わされて教会から離れてしまった人たち、その他数多くの分裂や混乱や難問があって、パウロの心を痛めさせていたことを私たちは既に学んで参りました。

 

完全無欠なキリスト者はどこにも存在しないでしょう。私たちはこの地上においては常に未完成であり不完全な存在にすぎないのです。しかしその不完全な「土の器」にすぎない私たちにこそ、主なる神は「十字架と復活の主イエス・キリスト」という「絶大なる富()」を与えて下さいました。それはコリント人への第二の手紙47節にこのように記されているとおりです。「(7)かしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。ですからキリスト者はお互いに「土の器」としての弱さや不完全さに目を留めて非難・批判の対象とするのではなく、その「土の器」の中に与えられた十字架と復活の主イエス・キリストの恵みという「絶大なる富()」にこそ目を留め、祈りをもって助け合い、支え合い、執成しを祈ることが大切なのです。

 

さらに、パウロは続く22節において「(22)すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく」と書き記しています。パウロはピリピから千キロ以上も離れたローマの獄中においてこの手紙を書きました。もちろん電話も、メールも、何もない時代です。通信手段はただパピルスに葦のペンで書いた手紙のみでした。そのような制約の中にあって、パウロは、テキコ、オネシモ、マルコ、ユスト、エパフロデト、医者ルカ、デマス、クレメンス、ユプロ、プデス、リノス・クラウデア、そうした数多くの具体的な兄弟姉妹たちの名前を挙げて、与えられた「信仰の絆」に感謝し、彼らのために「祝福の挨拶」を書き送り、あるいは彼らからの「祝福の挨拶」をピリピの人々に告げているのです。

 

いま名前を挙げた兄弟姉妹たちは、当時のロ−マ教会の指導的役割を担っていた人々であったと推測されています。中でも今朝の御言葉で驚くべきことは22節に「特にカイザルの家の者たちから、よろしく」とあることです。この「カイザル」というのはローマ皇帝のことです。ですから「カイザルの家の者たち」という言葉には2つの解釈が成り立ちます。

ひとつは、これはローマ皇帝に仕える僕たち、皇帝の側近の立場にあった人々のことであるという解釈。もうひとつは、これは文字どおり「ローマ皇帝の血縁者」つまり皇帝の家族や親戚筋の人々のことをさすという解釈です。いずれにしても、キリストのみを唯一の主(キュリオス)と告白する信仰からは最も遠く離れていたと考えられていた人々です。このような難しい立場の人々にも福音が宣べ伝えられ、洗礼を受けて教会員になる人たちがあったということがわかるのです。「カイザルの家の者たち」も救いにあずかり、ロ−マ教会というひとつの信仰共同体を形成していた人々であったのです。

 

ユダヤ人と異邦人という民族的な壁を超えて、さらには奴隷と自由人、貧民と貴族といった社会的階級や身分や貧富の差をも超えて、主にある兄弟姉妹として交わりを保ち「神の家族」としての「信仰の絆」で結ばれていたのです。ひとつの神の家族として共に生きるという「信仰共同体意識」がそこに保たれていました。ちなみにパウロは「キリスト・イエスにある聖徒」と敢えて単数形で自己紹介をしています。キリスト・イエスにあって私たちはひとつの「からだ」であり、ひとつの家族であり、ひとつの神の民、ひとつの「聖徒の交わり」とされているのです。それはガラテヤ書327,28節にこのように記されているとおりです。「(27)キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。(28)もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」。

 

信仰の継承の難しさ、教勢の停滞、伝道の不振が叫ばれて久しいものがあります。どこの教会でも、10年前と較べて礼拝出席者が約4割減少しているという現実があります。しかしいくら統計を挙げて伝道の掛け声を勇ましくしても、それで事態が急転解決するわけではありません。むしろ、私たちの教会の伝道の姿勢はいつも変わらないのですし、また変えてはならないと思うのです。それは、@主イエス・キリストのみを唯一のかしらとする真の教会を形成すること。Aキリストのみの福音をいつも健やかに宣べ伝え続けること。Bいかなる激動の時代にあっても真の礼拝を献げ続けることです。この伝道の基本姿勢に忠実に生き続ける群れとして、私たちは全世界の「聖なる公同の使徒的なる教会」に結ばれた枝として、聖書に堅く立つ教会として、ニカイア信条を告白する教会として、常に「陰府の力に打ち勝つ神の家・天の門」とされていることを覚えましょう。

 

次に「祝福を祈る」こと。私たちの主にあるこの大切な務めについて、パウロはこの手紙を「(23)主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」という祝福の祈りの言葉で結んでいます。つまりパウロは「信仰の絆」を主にありて感謝する「感謝の言葉」と同時に「祝福の祈りの言葉」をピリピの人々に書き送っているわけです。私たち葉山教会に連なる僕たちもまた、主イエス・キリストにありて全ての兄弟姉妹に対して「祝福を祈る」ことができる「祭司」とされています。ルターは聖書に基づいて「万人祭司」という教理を重んじました。それは全ての教会員(キリストの僕たち)が「祝福の祈り」に生きる者とされている幸いをあらわしているのです。手紙であっても電話であってもメ−ルであっても、共に祈りあう時であっても、私たちはいつでもどこでも「神の祝福を祈る」幸いを与えられているのではないでしょうか。ペテロ第一の手紙29節の御言葉を心に留めたいと思います。「(9)かし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」。

 

私たちキリスト者が祈る祝福の中心は「キリストの恵みがあなたにも豊かにありますように」です。この「恵み」とは「受けるに値しない者が一方的に受ける神の恩寵・神の愛」をさすことばです。ヘイスティングスの聖書辞典にはこういう記述がございました。「恵み、それは神が主イエスを救い主として信じる者たちに溢れるばかりに注いで下さるのであって、我らの善行の報酬などではない。それは神からの一方的な賜物として与えられるものである。恵みを頂く手段は信仰である。しかし実は信仰そのものも神の賜物である」。なによりも、パウロは「恵み」についてローマ書323,24節にこのように解き明かしています。「(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。そしてエペソ書28節も大事です。「(8)あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。

 

神からの賜物、しかも私たち全ての者を救う最大最高の賜物こそ「恵み」にほかなりません。今日は待降節第3主日の礼拝にあたり、私たちはこのことについてヨハネ伝114節を心に留めたいと思います。「(14)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。ここに記されている限りない「恵み」こそクリスマスの音信にほかなりません。すなわち、神がその愛する独子イエス・キリストを、つまりご自身そのものを「父のひとり子としての栄光」として「めぐみとまこと」そのものとして、私たちの罪の世界にお与え下さったことです。この「栄光」とは十字架の出来事をさしています。そして「めぐみとまこと」とは、内容的には、神による無条件の罪の赦し、救い、完成にまで至らせて下さる真実と愛、永遠の生命、そして信仰そのものさえ、神からの賜物なのです。

 

パスカルはパンセという本の中で「人間には神のかたちという空洞部分がある。しかして神のもとに立ち帰るまでは何をもってしてもその虚しさ埋まらない」と語りました。私たちは神のもとに立ち帰るまでは決して真の平安をえることはない存在なのです。それは言い換えるなら、ただ御子イエス・キリストという神からの賜物「めぐみとまこと」のみが、私たちの魂に、全存在と全生活に、生命と平安を与えて下さるのです。私たちがクリスマスを心から寿ぎお祝いするのは、まさに「めぐみとまこと」が「すべての人を照らすまことの光」として現れたことを知るゆえにです。

 

アポロ16号で月面に着陸した一人の宇宙飛行士が、NASA(アメリカ連邦航空宇宙局)を退職したのち献身し、神学校に入って牧師となりました。この人がこういうことを語っています。「私は月をこの足で歩いてきた人間として、ただひとつのことを喜びと確信をもって宣言する。それは、人間が月面を歩いたということよりも、主イエスが地上を歩まれたことのほうが、人類にとって遥かに意味があることなのだ」。キリストにあって「ひとりのいのちが眠りから覚める、死からいのちへ移される、死からいのちに生まれ変わる」これほどの喜びがあるでしょうか。これほどの祝福があるでしょうか。私たちはそのように「神の恵み」を知る者とされています。神の恵みを隣人にも祈る者とされているのです。この幸いの内に、心を高く上げて、まことのクリスマスを迎える私たちでありたいと思います。祈りましょう。