説    教      歴代志上291013節  ピリピ書41920

               「栄光は世々に限りなく」 ピリピ書講解(46

               2019・12・08(説教19491832)

 

 「(19)わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。(20)わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。これが今朝、私たち一同に与えられている神の言葉です。ここに、すでに冒頭から実に驚くべき言葉が出てきます。それは「わたしの神」という言葉です。これは単なる慣用句=決まり言葉などではないのです。使徒パウロは愛するピリピの教会の全ての兄弟姉妹たちと共に、心からの感謝と讃美をもってこの「わたしの神」という言葉を語っています。

 

 それは、どういうことでしょうか?。私たちはここですぐに、同じ新約聖書のヘブル人への手紙1116節です。「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」これはアブラハムを始めとする旧約の信仰者たちの信仰の姿を描いているところです。そのすぐ前の1113節には「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」と語られています。

 

 パウロは今朝の御言葉において、はっきりとこの恵みを意識しています。「だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。私たちは本来、主なる全能の父なる神を「わたしの神」などとは決して呼び得ぬ存在であったはずです。罪の塊のような私たちであったはずです。その私たちが主なる神を「わたしの神」と呼びまつることができるのは、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みによるのです。それ以外の如何なる根拠も理由もないのです。この驚くべき救いの恵みをはっきり意識しつつ、パウロは愛するピリピの教会の全ての人々と共に「わたしの神」という驚くべき言葉を用いているのです。

 

 それならば、これは神讃美の祈りであり、讃美の歌声であり、信仰による私たちの志を明らかにする「信仰の言葉」なのです。このようにして、今朝の19節はこのように続きます。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。ピリピの教会は誕生してまだ間もない、経済的にも貧しい教会でした。礼拝に集まる人の数も決して多くはなかったのです。今日流の言葉で言うなら「教勢の振るわぬ教会」でした。先日の12月定期長老会でも話題になったのですが、東海連合長老会に所属する9つの教会でも、この「教勢の振るわぬ」ことが問題になっています。どの教会でも10年前と比べて礼拝出席者が約4割減少しているという現実があるのです。

 

 このような「教勢の振るわぬ」現実に直面して、私たちは気落ちし、気後れし、落ちこみ、うなだれてしまうほかないのでしょうか。特に財政面における「教勢の振るわぬ」現実は、現代のどの教会にも共通した悩みですが、そのようにして、私たちの教会の伝道の規模が縮小してしまう、礼拝もどことなく勢いのない慎ましやかなものになってしまう、教会の雰囲気もおとなしく力のないものになってしまう、いままさに私たちはそのような現実問題に直面しているわけです。イギリスなどでは伝統ある教会が経済的な問題からパブになったりしています。建物だけ解体されて日本に運ばれて結婚式場になっていたりもします。

 

 しかし、どうか私たちは聖書の御言葉から明確に学ぼうではありませんか。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。ここでパウロは単に「落ちこんでいないで元気を出そうではないか」と言っているのではありません。そうではなく「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」と語り告げているのです。この最後の「であろう」というのは元々のギリシヤ語では「必ず…そのようにして下さる」という意味の言葉です。主なる神みずからが「あなたがたのいっさいの必要を」必ず「ご自身の栄光の富の中から」「キリスト・イエスにあって満たして下さる」のです。

 

 主なる神が世界の救いのために必要だとお建てになった主の教会です。それならば、その教会が必要とする全てのものを主は必ず「ご自身の栄光の富の中から」備えて下さるに違いないのです。この信頼をもって、いつも主の御業のために全力を尽くして励むことが私たちに求められています。あとのことは主にお任せすればよいのです。主は必ず「ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さる」のです。

 

 そのように語り告げた後で、今朝の20節が続きます。「わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。これは頌栄(ドクソロジー)という讃美の言葉です。私たちの讃美歌にも「頌栄」または「讃詠」という歌がありますね。あれを英語で言うと“doxology”になるのですが、私は日本の教会がいちばん疎かにしているものがこのドクソロジーではないかと思うことがあるのです。お気付きになっているかたもあると思いますが、聖書拝読のあとの私の祈りの中で、いつも最後に「願わくは、父と子と聖霊なる神に世々とこしえに栄光あらんことを」と祈ります。

 

あまりこのような祈りを献げる牧師は、他にいないのかもしれません。私はそれはとても残念なことだと思っています。私はこの頌栄の祈り(ドクソロジー)を高校生の頃にハーバート・ベーケンという宣教師から学びました。それこそ「門前の小僧習わぬ経を読む」の譬えではありませんが、私はこのベーケン先生から2つの決定的な影響を受けたのです。ひとつは祈りの最後に「祈りたてまつる」と言うこと。もうひとつがいま申し上げたドクソロジーです。なぜこれが大切なのか、ドクソロジーというのは直訳すると「神の栄光を讃美する言葉」なのです。それこそ礼拝の本質、説教の本質、そして讃美歌の本質を現しているのではないでしょうか。

 

 パウロは知っていました。おそらく間違いなく、いま自分が書いているこのピリピ人への手紙が自分の地上における最後の手紙になることを。事実このピリピ人への手紙はパウロの絶筆となったか「最後の手紙」であると考えられています。この最後の手紙を書き送るにあたって、パウロの胸中に去来した思いは数えきれないほど多くあったことでしょう。ピリピにおける伝道の苦労、教会形成のための数々の苦しみや試練、多くの人々との出会いとその思い出、その他、湧き上がる思い出は尽きなかったことと思うのです。しかしそうしたことをパウロは敢えて書きませんでした。

 

 そうではなく、ただドクソロジーのみを書き記したのです。主なる神に対する讃美頌栄だけをピリピの人々に書き送ったのです。ここにパウロの伝道者としての揺るがぬただ一つの思いが、決意が、信仰による志がありました。おのれを現さず、ただ主なる神の栄光のみを現わさんとする志です。清々しく潔いキリスト者の信仰の姿勢です。だから実質的にこの420節が使徒パウロの絶筆の最後の言葉なのです。「人のまさに死なんとするやその言葉や佳し」と言います。それならば、まさにパウロの臨終の言葉こそこの420節でした。「わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。

 

今朝あわせて拝読した列王記上2910節以下の御言葉をお読みして終わりましょう。ここにはダビデがエルサレム神殿の献堂においてささげた祈りが記されています。これもまたドクソロジーであります。「(10)そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。」(11)主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。(12)富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。(13)われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます」。

 

 願わくは栄光が、世々に限りなく、ただ神にのみありますように。祈りましょう。