説    教       詩篇2316節   ピリピ書41718

               「汝らの益となれる実」 ピリピ書講解(45

               2019・12・01(説教19481831)

 

 今朝ご一緒にお読みしたピリピ書41718節を、もういちど口語訳で心に留めましょう。「(17)わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。(18)わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」。

 

 ここに、とても不思議な言葉が出てきます。「わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」という17節の御言葉です。ピリピ人への手紙は意外に難しい言葉で書かれているのですが、特に今朝のこの17節はそうではないでしょうか。特に「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」という言葉は、いったい何を語っているのか、読めば読むほど「よくわからない」というのが私たちの率直な印象ではないでしょうか。

 

 今朝の説教題を「汝らの益となれる実」としました。これはこの17節の文語訳「汝らの益となる実の繁からんことを」からです。実は使徒パウロはここで「実の繁からんことを」とあるように、はっきりと果樹園の果実のイメージを描いています。リンゴでも梨でもブドウでも、なんでも良いのです。とにかくここにひとつの果樹園がある。そういうイメージです。私は農学校時代に果樹園の手入れを経験しましたが、それは大変な作業です。春夏秋冬それぞれに、心をこめて丁寧に作業をしませんと、良い実を実らせることはできません。

 

 いまシャインマスカットというサファイヤのような色をしたブドウが注目されていますが、私が農学校で手入れをしたのは、そのシャインマスカットの先祖であるマスカット・オブ・アレキサンドリアという品種でした。一年間ずっと心をこめて作業をして、さていよいよ収穫の秋、という段になったところで、ちょうどブドウ園の隣がテニスコートだったのですが、テニス部の連中に食べられてしまった。ブドウの皮だけが無造作に捨てられていました。私は激怒してテニス部の部室に乗りこみ「おまえら何をしたのかわかっているのか!」と、全員に平謝りさせたことがありました。最後に「食べるならせめて皮ごと食えよ」とも諭しました。

 

 とにかく、ブドウでもリンゴでも何でもそうですが、植物は決して手入れする者の奉仕を裏切りません。心をこめて丁寧に手入れをすればするほど、その結果が「良い実」となって現れます。その逆に、手入れを怠っていますと決して「良い実」は実らないのです。「汝らの益となる実の繁からんことを」という17節の言葉は、実はその「手入れ=奉仕」と深く関わっています。そこで、主の教会に連なる私たちが献げる「奉仕」とはいったい何でしょうか?。それははっきりと、献金のことだと使徒パウロは語っているのです。

 

 ローマの獄中にあり、著しい困難と不自由の中で伝道のわざに取り組んでいた使徒パウロを助けるために、ピリピの教会の信徒の人々が献金や援助物資を、エパフロデトやテモテといった青年の手に託して届けさせたのです。そしてパウロはそうした青年たちがピリピに帰る時にこの「ピリピ人への手紙」を持たせて帰しました。先の15節には「もののやり取りをしてわたしの働きに参加した教会」という言葉がありますが、この「もののやり取り」というのは御言葉と奉仕のわざの「やりとり」であったことがわかるのです。そしてその奉仕のわざの中心こそ献金のわざでした。

 

 そうすると、こういうことになるのではないでしょうか。ピリピの教会の信徒の人たちが一所懸命に心をこめて献金を献げる、まさにその主にある奉仕のわざが、使徒パウロの伝道のわざを豊かに支え、祝福を現すものになったとき、その祝福の豊かな実りはそのまま、ピリピの教会の兄弟姉妹たちに帰ってゆくものになったのではないでしょうか。それこそが「汝らの益となる実の繁からんことを」というパウロの祈りの内実であったのです。

 

すなわち17節にパウロは「わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」と祈っています。ここでパウロが言っている「わたしは、贈り物を求めているのではない」とは、この教会の奉仕のわざ=献金のわざは、一方通行に終わるものではないのだということです。そうではなくて、果樹園の手入れがまさにその祝福の実りを現しているように、ピリピの教会の兄弟姉妹たちの献金のわざは、それが熱心に献げられればられるほど、豊かな実りを現すものになるのだということです。まさしくその奉仕の、献金のわざは、それを献げたピリピの教会の信徒の人たちに「豊かな祝福の実り」となって還ってゆくものなのだということ。それをパウロは17節に「わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」と語っているのです。

 

 だからこそ、続く18節にはこのように記されています。「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」。ピリピの教会の兄弟姉妹たちよ、あなたがたからの献金を届けて頂いて、私は「すべての物を受けてあり余るほどである」そして「飽き足りている」。しかしそれはただ物を受けたというだけのことではない。そうではなくて「それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」と言うのです。それは主なる神に対する感謝の「供え物」であるからこそ「あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」とパウロは語っているのです。この「勘定」というのはルター訳のドイツ語の聖書では(もちろん普通には「勘定する」と訳される“anrechnen”という言葉ですが)「豊かな収穫」という意味の言葉になっています。「それはあなたがたの豊かな収穫となる果実なのである」。

 

 顧みて、いまこの葉山教会に連なる私たちはどうでしょうか。私たちもまた「豊かな収穫となる果実」に共にあずかる、そのような奉仕のわざに、主に対する感謝の献金のわざに、いつもいそいそと喜び励む群れとなっているでしょうか。それが今朝の御言葉によって改めて問われているのではないでしょうか。

 

 今日から待降節(アドヴェント)が始まります。クリスマスへの備えをなすこの大切な季節にあたりまして、私たちに主が求めておられることは、それこそ今朝の御言葉そのものではないかと思うのです。「あなたがたの勘定をふやしていく果実」を主は求めておられる。否、いま私たちにその「果実」を豊かに与えていて下さるのではないでしょうか。それは何かと言いますと、御子イエス・キリストの御降誕の恵みです。クリスマスの祝福と幸いです。神は私たちにその独子をさえ賜わったのです。その尊き御子を戴いた私たちは「それは(御子イエス・キリストの御降誕こそ)あなたがたの豊かな収穫となる果実なのである」との明確なメッセージを、いまここで賜わっている僕たちなのです。

 

 まさにこの恵みを知る者として、詩篇23篇の作者であるダビデは、その1節以下にこのように歌いました。「(1)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。(2)主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(3)主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。そうです、まさに御降誕の主の恵みをいま戴いている私たちは、主が永遠の牧者であられることを知っています。そして私たちには「乏しいことがない」幸いに生きる者とされています。私たちは主から受けたものを再び主にお献げする幸いを与えられているのです。

 

「緑の牧場、いこいのみぎわ」に私たちを伴い、永遠の生命を与え、豊かに養って下さる神の恵みを讃美しつつ、いまこの待降節にあたりまして、私たちはいよいよ信仰の志を熱くして「奉仕のわざ=献金のわざ」にいそしみ励む者たちとされて参りたい。主は必ず私たちの献げものを御業のために豊かに用いて下さり、私たち全ての者に「「汝らの益となれる実」をまし加えて下さるのです。祈りましょう。