説    教      サムエル記上1745節   ピリピ書413

               「万軍の主の御名」 ピリピ書講解(43

               2019・11・17(説教19461829)

 

 「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。使徒パウロのこの大胆な言葉に、私たちは驚きを禁じ得ません。「何事でもすることができる」ということは、私たちの普通の人生感覚からはかけ離れているからです。しかし使徒パウロは確かにはっきりと「何事でもすることができる」と言い切ってやみません。いわばパウロはここで、私たちの常識を打ち破っているのです。それは「わたしを強くして下さるかたによって」であると言うのです。この「わたしを強くして下さるかたによって」ということが、今朝のピリピ書413節の中心であります。

 

 聖書の中には、特に旧約聖書を読みますと「万軍の主」という御言葉がたくさんあらわれて参ります。特にイザヤ書には多く70回も出てきます。神の御名を直接に呼ぶことは怖れ多いとしたイスラエルの民でした。しかし「万軍の主」という表現で、敢えて人間が呼びえない神の御名を呼びまつったことに、イスラエルの民の信仰の姿勢(祈りの姿勢)が現れています。なによりも大切なのは「万軍の」という表現です。元々のヘブライ語では“ツェバーオート”という言葉です。これは「軍団」を意味する“ツァーバー”の複数形で、ひとつの国家の軍隊の総体を意味する「全軍」という意味の言葉です。ちなみに「万軍の主」はヘブライ語では“ツェバーオート・アドーナーイ”。「万軍の主の御名によって」は“ベシェーム アド―ナーイ ツェヴァーオート”(צְבָאוֹת יהוה בְּשֵׁם 右から読む)となります。

 

 ここでわかるように「万軍の主」というのは「神の国の全軍の(総帥であられる)主なる神」という意味の言葉なのです。このかたの命令のもと、このかたの御意志のもと、このかたの御心のもと、神の国の全軍が総動員されるのです。そして私たちの救いのため、全世界の救いのために、罪と死の支配に対して果敢な戦いが繰り広げられるのです。そのような明確なイメージを持って、使徒パウロはここに「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と語っているのです。断言しているのです。罪と死の支配さえも打ち滅ぼしたもう、神の国の全軍の総帥であられる主なる神が私たちと共にいましたもうのです。それならば、まさに「万軍の主の御名によって」(ベシェーム アド―ナーイ ツェヴァーオート)「何事でもすることができる」のではないでしょうか。

 

 これ以上に心強い味方、確かな援軍はないではないかと、使徒パウロは宣べ伝えているのです。私たちはここで、同じ使徒パウロによるローマ書831節から34節の御言葉を思い起こします。「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。

 

 実に、私たちの主なる神は「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかた」なのです。それならば、その「万軍の主なる神」が「どうして、御子のみならず万物をも(私たちに)賜わらないことがあろうか」。ここに使徒パウロの揺るがぬ確信がありました。そしていまここに連なる私たち一人びとりもまた、この同じ「万軍の主なる神」による確信と平安を与えられているのではないでしょうか。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。

 

 そこで、先ほど紹介いたしました「万軍」という言葉のヘブライ語“ツェバーオート”でありますが、これをヘブライ語のそもそもの語義に従って直訳しますと「全軍を指揮して戦いに出かける」という意味になるのです。どういうことかと申しますと、私たちが人生の中で様々な苦しみや悲しみ、それこそ数々の戦いや試練を経験しますとき、主なる神はそれを傍観しておられるようなかたではないということです。そうではなく、私たちが様々な戦いや試練を経験するとき、主なる神は私たちを助け救うために「全軍を指揮してその戦いに参加して下さるかた」なのです。さらに言いますなら、私たちの人生のあらゆる戦いに「万軍の主なる神」みずから先立って戦って下さるかたなのです。

 

 今朝、併せて拝読したサムエル記上1745節に、このようにございました。「ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの万軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」。この「ペリシテびと」というのはゴリアテのことです。ゴリアテは歴戦の軍団であったペリシテびとの中でも特に優秀かつ勇猛果敢な戦士であり、ダビデの背丈は「六キュビト半」(約2メートル50センチ)もあるゴリアテの半分にも及びませんでした。このゴリアテはペリシテびとの軍団の先頭に立ち、毎日イスラエルの神、イスラエルの民を侮辱する言葉を投げつけて挑発して来たのですが、サウル王をはじめイスラエルの民はどうすることもできなかったのです。

 

 そこで年若き少年ダビデがサウル王に申し出て申しますには、自分があのゴリアテを倒します。サウルは驚いて、それは無理だ、ゴリアテは歴戦錬磨の勇士だけれど、あまえはまだ少年で、一介の羊飼いにすぎないではないか。そう言って止めたのですがダビデの意志は堅かった。そこでサウルはダビデにせめてもと、自分の鎧兜と剣を与えて着せようとしたのですが、それはダビデには大きすぎて着るのは無理でした。ダビデは「そんなもの要りません。私は羊飼いが猛獣から羊を守る石投げでゴリアテを倒します」と。ダビデは河原で5つの小石を拾って袂に入れただけでゴリアテと対戦することになりました。

 

 まさにこの巨人ゴリアテに対峙して、羊飼いの少年ダビデが語った言葉が、今朝のサムエル記上1745節なのです。44節から読みましょう。「ペリシテびと(ゴリアテ)はダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの万軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」。そのようにして見事にダビデは一撃でゴリアテを倒しますと、いちばん強い歴戦の勇士が倒されたものですから、もうペリシテびとの軍団は総崩れになりまして形勢逆転。その日を境にイスラエルの軍勢が大勝利をおさめたのでした。

 

 私たちはここでダビデが語った言葉に改めて心を留めたいのです。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの万軍の神の名によって、おまえに立ち向かう」。私たちは人生における様々な戦いや試練を経験するとき、サウル王やイスラエルの民のように、巨人ゴリアテの姿に恐れをなし、ゴリアテの言葉だけを聞いてしまいます。ゴリアテの強さの前に立ちすくみ、逆に自分自身を見て意気消沈し、恐れ、希望を失ってしまうのです。しかし、そこで聴き、見上げなければならないおかたはただ一人です。その時にこそ私たちは「万軍の主なる神の言葉に聴き、万軍の主なる神のみを見上げる」のです。少年ダビデが河原で拾った5つの石は神の御言葉を象徴しています。ダビデはゴリアテに対して神の御言葉のみで立ち向かったのです。そして勝利したのです。「万軍の主なる神」がダビデと共におられ、先立って戦い、勝利して下さったのです。

 

 この大切な信仰の戦いの場面において、サウル王はダビデと共にゴリアテとの戦いに出かけませんでした。ダビデに自分の鎧兜と剣を与えましたが、よもやダビデがゴリアテに勝つとは思っていなかったのです。つまりサウル王は自分を守り、ダビデを決死の戦いに一人で出させたのです。しかし、ダビデ独りではありませんでした。これは主の戦いであり、主がダビデと共に戦っておられたのです。主イエス・キリストは生きておられ、私たちの一つひとつの人生の戦いや試練を、ただ眺めておられるかたではなく、共に戦って下さるかた、先頭に立って戦って下さるかたです。聖霊は、私たちが呻く時に共にに呻き、祈れない時に、私たちのためにとりなして下さるかたです。そして、ダビデのように、ご自身に信頼し歩む者に、必ず勝利を与えて下さるのです。

どうか私たちは、この世の戦い、内なる罪との戦い、日々の務めにおける様々な戦いや試練において、形勢不利な状況や自分の無力さだけを見て怖れ惑うのではなく、そこからこそ「万軍の主」なる主イエス・キリストのみを見上げましょう。十字架と復活の主イエス・キリストは、主が御父のもとから送って下さる聖霊は、私たちの戦いの場で私たちと共に戦って下さるかたです。私たちが「万軍の主」に信頼して歩むとき、私たちはその戦いに既に勝利を約束されています。「万軍の主」みずから、私たちを神の栄光を現わす勝利へと導いて下さるのです。 祈りましょう。