説    教       列王記上1716節   ピリピ書41012

              「キリストに在る知足」 ピリピ書講解(42

               2019・11・10(説教19451828)

 

 今朝私たちに与えられた御言葉はピリピ書410節から12節です。「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。

 

 かつて私たちの信仰の先達たち、旧日本基督教会の時代に「教会の独立自給」ということが大切にされていました。これは、ただ単にその教会が経済的に他からの援助なしに維持活動できるという意味ではありません。何よりもその教会が福音宣教の御業のために、時と力と宝を献げて奉仕する群れになること、伝道のわざのために労を惜しまず熱心に献げる教会に成長すること、それを「教会の独立自給」と言うのです。これは現代でも忘れてはならない大切な教会形成の基本姿勢です。まさにその意味において、私たち葉山教会では年に一度の定期教会総会の資料の表紙に「伝道開始・1924年。独立自給・1936年」と明記しているのです。

 

 ところで、この1936年というのは昭和11年のことです。この年に私たち葉山教会は旧日本基督教会の東京中会における「独立自給の教会」となりました。当時の牧師先生は杉田虎獅狼(すぎたこしろう)先生です。名前は恐ろしいけれど温和なお人柄の優しい先生であったようです。私の親しい仙台の東北学院大学教授・カルヴァン研究者の野村信牧師の曽祖父にあたるかたです。この杉田虎獅狼先生はしかし、説教壇に立たれるや否やとても激しい説教をなさいました。神学生時代に当時の葉山教会に夏期伝道に遣わされた故・川ア嗣夫先生は「ああこの先生は説教壇に立たれると本当に虎獅狼になるんだ」と思ったと私に語って下さいました。

 

 あたかも時代は日本が戦争へと向かう時であり、教会にとっては厳しい試練の時代でした。もちろん教勢も振るわず、礼拝出席も10名台のことが多かったようです。しかしそのような逆風の時代にもかかわらず、私たちの葉山教会は杉田虎獅狼先生のもとで「独立自給の教会」へと成長したのです。これは大変なことであると思います。葉山教会は私で5代目の牧師になりますが、私はこの2代目の杉田虎獅狼先生の時代に葉山教会の信仰的な基礎が据えられたと思っています。余り健康に恵まれなかった杉田先生は戦時中に病気のため天に召されました。その後を受継いで3代目牧師になられたのが宮ア豊文先生です。このお二人が伝道牧会された約40年間に受けた主にある訓練と信仰の賜物を、私たちは決して失ってはならないと思います。葉山教会は4年後の2024年に教会創立(伝道開始)100周年を迎えますが、いまこの時にあたりまして、改めて「独立自給の教会」の意味を深く顧み、新しい時代の主の御委託に応えて参りたいと思うのです。

 

 さて、ピリピの教会も「独立自給の教会」でした。創立して間もないピリピの教会は経済的にも本当に貧しい小さな教会でしたが、使徒パウロの指導のもとで「独立自給の教会」へと成長したのです。それはただ経済的に自立したというだけの意味ではありません。経済的にはどんなに貧しくても、使徒パウロの伝道のわざを「時と力と宝とを献げて」支え続ける主の群れへと成長したということです。このピリピの教会の兄弟姉妹たちの主にある「独立自給」の志を喜び感謝しつつ、使徒パウロは今朝の410節において「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである」と語っています。

 

 ここで「今またついに」とパウロが言いますのは、この時のパウロがローマにおいて牢獄に囚われの身となっていたからです。ピリピから約1000キロも離れたローマでパウロが獄中にいることがピリピの教会の「独立自給」の志を挫いたのではないのです。その逆なのです。そうした苦難の中にあるパウロ先生の伝道活動を助けんとして、貧しいピリピの教会の兄弟姉妹たちが熱心に献げものをなし、エパフロデトやテモテといった青年の手に託して、驚くほど多くの献金をパウロに送ってくれたのでした。「今またついに」とはそのことをさしています。パウロの投獄という苦難の出来事がピリピの教会の「独立自給」を促す契機になったのです。

 

 だからパウロは10節の続きに、このように書いています。「実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである」。まさに教会のかしらなる主が、あなたがたに「よい機会」を与えて下さったことを、あなたがた一同と共に主なる神に感謝するとパウロは語っているのです。パウロの投獄という苦難を主が与えて下さった「よい機会」として、ピリピの教会の「独立自給」を促して下さった主なる神に共に感謝をささげようではないか。そのようにパウロは語っているわけです。

 

そのようにして続く11節と12節に、パウロは更にこのように語っています。「(11)わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。(12)わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。私はかつて先輩の牧師先生から「牧師は信徒の献金についても、きちんとした説教が語れる者でなければならない」と教えられました。ところがえてして、牧師が献金について「きちんとした説教」を語りますと批判めいた反応が教会員の間に現れることがあるのです。「牧師なのに金の話をするとは何事か」と言う反応です。不思議なことにそうした反応をする人に限って献金額は少ないのです。かつて宮崎豊文先生は「主イエスは貧しき人は幸いなりと言われたのであって、ケチン坊は幸いなりと言われたのではない」と語られました。献金は私たちの信仰の献げものであり大切なものです。

 

とまれ、パウロが牧会していたピリピの教会にも同じような反応を示す教会員がいたのでしょう。だからパウロは11節に敢えて「わたしは乏しいから、こう言うのではない」と語っています。自分が経済的に貧しいから、だから「献金を送ってくれ」と言っているのではないとパウロは明言しています。むしろ自分自身について語るなら「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と言うのです。12節以下です。「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。

 

 今日の説教題に用いた「知足」というのは本来は仏教用語です。禅の言葉(禅語)です。私の書斎に「知足」と墨で書かれた額があります。これは20年前に亡くなられた鎌倉の臨済宗不識庵の藤井宗哲和尚が書いて下さったものです。私が葉山教会に赴任したとき、藤井宗哲和尚は袈裟姿のままで就任式に出席して下さいました。ところでこの「知足」という言葉は、一般によく考えられているように「不平不満を言わず、いまあるものだけで満足しなさい」という意味ではないのです。そうではなく、まさに文字どおり「足ることを知る」という意味なのです。つまり「不平不満を言ってはならない」という消極的な言葉ではなく「足ることを知ることに本当の豊かさがある」という積極的な言葉なのです。

 

 今朝あわせてお読みした旧約聖書・列王記上1716節にこうございました。「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」。これはどういう場面かと申しますと、紀元前8世紀のイスラエルの預言者エリヤがシドンのザレパテという町に来たとき、エリヤはそこで非常な空腹を覚えまして、村はずれで薪を拾っていた一人の寡婦の女性に食物を乞うたのです。しかしこの女性はたいへん貧しく、一個のパンを焼くのが精一杯でした。彼女はこのたった一個のパンをエリヤのために献げたのです。

 

 すると不思議なことが起こりました。それが先ほどの16節です。「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」というのです。なぜでしょうか。それはこの寡婦の女性がエリヤに出会って「独立自給」の信仰に生きる者とされたからです。神への奉仕のわざに生きる僕とされたからです。そのとき、彼女の持物はたとえどんなに僅かなものであっても、主なる神がその僅かな献げものを通して、大きな御業を世に現して下さるのです。私たちが献げる精一杯の貧しい献げものを、神はご自身の御業のために豊かに用いて下さるのです。それこそキリストに在る真の「知足」なのです。「吾唯足知」(吾れ唯だ足を知る)の祝福です。「独立自給」の祈りによる信仰生活の祝福です。それをまた、私たち葉山教会員一同も豊かに受継ぐ主の僕とされているのではないでしょうか。献げものに生きる主の僕の「知足」がここにあります。キリストに在りてこそ「足ることを知る」者の幸いのわざであります。

 

 約30年前に私が洗礼を授けた一人の兄弟がいます。優れた化学者でして、戦前のことですが、難病に苦しむ奥さんを自分が調合した薬で治してしまったという逸話のある人です。それこそ使徒パウロのように「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」人でした。この人が年金生活になりまして、当然ですが収入も従来よりずっと少なくなりました。心配する奥さんに対して、当時まだ洗礼を受けていなかったこの人が言いますには「心配なんかしなくても良いよ。献金するお金はちゃんと主が備えて下さる。それだけで十分ではないか」。私はその言葉を夫人から聴きまして感動しました。そして本人に会いまして「あなたはそんな素晴らしいことを奥さんに話されるのだったら洗礼を受けなくてはいけませんよ」と言いますと、本人は「喜んで洗礼を受けさせて下さい」と。それで洗礼を受けられたのです。

 

 私たちも同じではないでしょうか。安心して良いのです。それこそ「献金するお金はちゃんと主が備えて下さる。それだけで十分ではないか」なのです。そこにこそ「キリストに在る私たちの知足」があるのです。祈りましょう。