説    教       イザヤ書3217節   ピリピ書49

               「平和の神」 ピリピ書講解(41

               2019・11・03(説教19441827)

 

 今朝、私たちに与えられている福音の御言葉はピリピ書49節です。「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」。

 

 ここに「平和の神」という言葉が出てきます。聖書の中ではありそうで、実は比較的めずらしい表現です。いわゆる今日の平和主義者のスローガンではありません。ここで使徒パウロはキリストに在る信仰に基づいて、怖れと喜びをもって「平和の神」という特別な言葉を用いているのです。しかもパウロはこのように語っています。「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」。

 

 パウロという人はたいへん謙虚な人でした。謙虚すぎることがパウロの性格上の欠点であったと敢えて言いうるほどです。まさしくそのパウロが今朝の9節では「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい」と語って憚りません。さらに「そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」とまで言い切っています。これを私たちはどう理解したら良いのでしょうか。ここでパウロは謙虚さの美徳を失っているのでしょうか。傲慢な思いでこのようなことを語っているのでしょうか。

 

 もちろん、そうではありません。パウロの言葉はここでも徹頭徹尾謙虚です。パウロはただ主なる神の僕としてのみ自らを表しています。愛するピリピの教会の全ての人たちに対しても、どうかあなたがたは、いつもキリストの恵みに堅く立ち、天に国籍ある者、主にありて常に救いを喜ぶ者として、主の御前に健やかに立ち続ける群れであってほしいと願っています。私たちの救いの中心は十字架の主イエス・キリストであり、少しも自分の力や資格や相応しさではないからです。

 

この大切なことを一意専心に語り続けてきたパウロであるからこそ、いま改めてここに「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい」と語り告げることができたのです。まさに主にある怖れと喜びをもって「そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいます」と宣べ伝えることができたのです。

 

そういたしますと、この「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たこと」と言いますのは、同じピリピ書の317節に呼応していることがわかります。「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい」とあることです。ピリピの教会の人々は、使徒パウロの何に「ならう」のでしょうか。それこそパウロが常にキリストを唯一の主とし、同じピリピ書の127節にあるように「ただ…キリストの福音にふさわしく生活」することです。この「ふさわしく」とは私たちキリスト者の生活全体の基盤を意味します。キリストの福音、キリストによる救いの喜び、そして「天に国籍ある者」とならせて戴いた恵みが、私たちの新しい生活全体を支え貫く基盤となっていることです。

 

 そういたしますと、今朝の49節の「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい」とは、ピリピの教会の全ての兄弟姉妹が、そしてここに集う私たち全ての者たちが、使徒パウロを救い、生かしめ、新たになしたのと同じ救いの恵みに、いまここであずかる者たちとされている喜びであり幸いではないでしょうか。これを教理の言葉では「聖なる公同の使徒的なる教会の信仰に連なること」と言います。使徒パウロ、ピリピの教会の全ての人々、そして代々の聖徒らを救い、生かしめたのと同じ、主イエス・キリストによる唯一の救いの基盤に堅く立つ群れになることです。

 

 言い換えるならば、私たちが主イエス・キリストから与えられた救いとは、まことに確かな客観性を持つものなのです。つまり、私たちが救いを実感するとかしないとか、感じられるとか感じられないとか、そのような主観的な要素を遥かに超えた確かさを持つものとして、私たちは主にある救いの恵みを戴いているのです。このあたりの“救いの客観的確かさ”を曖昧にしてきたところが、日本の教会の大きな弱点なのではないでしょうか。

 

 これをもっとはっきりと言うならば、私たちが戴いている救いの恵みは、徹頭徹尾キリストによるのであって、微塵も私たちの知恵や力や相応しさによるものではないのです。このことが身に沁みてわかっていませんと、信仰生活がすぐにパリサイ人のような「人間の義にしがみつく生活」になり替わってしまうのです。信仰生活の喜びと確信が失われ「自分はダメなキリスト者だ」という諦めか、さもなくば自分をも他者をも審きの心でしか見ない律法主義にすり替わってしまうのです。その行き着く先は絶望でしかありません。

 

 私たちが、ピリピの教会の兄弟姉妹たちが、そのようなパリサイ主義に陥らないために、何が必要なのでしょうか。まさに今朝の49節でこそ使徒パウロは、その明確な答えを示しているのです。「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」。

 

 パウロという一人の人間に「学ぶ」のではありません。そうではなく、パウロを救い、新たに生かしめた主イエス・キリストの救いの恵みに、ただそこにのみ私たちの心のまなざしを注ぐのです。パウロを通して現わされた十字架の主イエス・キリストの救いの恵みに「学ぶ」のです。だからこそ主の僕パウロから「学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい」と告げられているのです。言い換えるなら、パウロが生きたのと同じ救いの基盤に、私たちもまた堅く立つ者となることです。「聖なる公同の使徒的なる教会の信仰に連なること」です。私たち自身を見るのではない、パウロを見るのでもない、ただそこに現れたキリストの救いの確かさを見るのです。

 

今朝、併せて拝読した旧約聖書・イザヤ書3217節にこのようにありました。「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」。人類の歴史は歴史と世界そのものを救済し完成する正義を追求した歴史です。これは言い換えるなら、人類史は真の神を求めてやまぬ旅路であったということです。真の神を見出すことができたなら、そして真の神を知る者とされたなら、そのとき私たちは本当にこの歴史と世界を救うところの「正義=ミシュパート」を見出すことができるであろう。この正義とは単数形であり「真の神による真の救い」をあらわしています。だからこそその正義は私たちのこの世界に真の平和を実現する、もたらすものである。それこそが「正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である」の意味です。

 

 それならば、まさにここにこそ、今朝の49節の「平和の神」という言葉は呼応するのです。結びつくのです。「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」。私たちは主イエス・キリストに結ばれた僕たちとして、どのような務めに日々招かれ、召されているでしょうか。それこそ先ほどの127節にあるように「ただ…キリストの福音にふさわしく生活」する新しい生活です。これをルターは「キリストに結ばれた者たちの良きわざ」と言いました。もちろん、私たち人間のいかなる「良きわざ」といえども、それが私たちの救いの保証となるわけではありません。神と人との質的相違は永遠の義と究極の罪との相違なのですから、私たちの献げうる最大最上の「良きわざ」も、私たちの救いとはなりえないのです。

 

 しかし、そこになお大きな意味があるのではないでしょうか。言い換えるならば、信仰を持つ人の「良きわざ」と、信仰を持たない人の「良きわざ」の違いがあるのではないでしょうか。それこそルターの言う「キリストに結ばれた者たちの良きわざ」にこそ「平和の神」が意味と祝福を与えていて下さるのではないでしょうか。それはひと言で言いますなら「天国の徴=神の永遠の恵みの御支配の徴」の有るか無きかなのです。人間的な目で見るならば、信仰を持たない人の「良きわざ」も、信仰を持つ者の「良きわざ」も同じように見えるのです。しかし「天国の徴」はただ信仰による「良きわざ」にのみ現れているのです。この違いは一見、小さく見えますが、しかし非常に大きなものなのです。この違いを、この「天国の徴」を、あだや疎かにする私たちであってはならないと思います。この「天国の徴」を見落とす私たちであってはならないのです。

 

 私たちは「良きわざ」に生きようとすればするほど、疲れや、焦りや、失望や、苛立ちを覚えるものです。思うように事が運ばないとき、私たちはそこで「良きわざ」を投げ出してしまいたくなります。そのような時にこそ、はっきりと思い起こしたいのです。「キリストに結ばれた者たちの良きわざ」こそは「天国の徴」であることを。「平和の神」が私たちと共にいまし、そのわざを用いて、導いて、励まし強めて、主の日における完成の喜びにあずからせて下さることを。だからパウロは第一コリント1557節以下にこのように語っています。「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

 

 まさにこの主にある勝利の喜び、主の救いに連なる僕とされた私たちの感謝と希望の生活に、今朝の49節は繋がるのです。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」。主は私たちの永遠の贖い主として、私たちといつも共にいまし、全ての「主にある良きわざ」を導き励まして、完成の喜びに至らせて下さるのです。祈りましょう。