説    教       詩篇11110節   ピリピ書48

               「全ての徳と誉」 ピリピ書講解(40

               2019・10・27(説教19431826)

 

 今朝、私たちはピリピ書48節の4回目の学びへと招かれています。そこで改めて48節の全体を心に留めましょう。「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。

 

 ここで使徒パウロは、愛するピリピの教会の全ての兄弟姉妹たちに対して、懇ろな主にある生活上の具体的な勧めを語っています。今日は何よりもその最後の言葉「また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」をご一緒に学んで参りたいと思います。

 

今日の説教題を「全ての徳と誉」としました。実は「徳と誉」というのは古代ギリシヤの人々にとって、とても大切な美徳でした。「徳」は人間としての尊厳と名誉にかかわる事柄であり、そして「誉」とはその具体的な現われを意味しました。つまり「徳と誉」という2つの言葉はワンセットのものとして理解されたのです。しかもそれは人間の生活にとって最高の名誉ある称号であり、まさに「徳と誉」を獲得しえた者こそが理想的なギリシヤ人でありローマの市民と見なされたのです。

 

それでは使徒パウロは、そのような人間的な名誉称号として「徳と誉」を語っているのでしょうか。そうではありません。パウロがここで宣べ伝えている「また徳といわれるもの、称賛に値するもの」とは、主なる神が御子イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、私たち全ての者に与えて下さる恵みをあらわしています。それ以外の意味はないのです。「徳と誉」は神からの恵みであって、私たちが人間として獲得する報酬や称号ではないのです。

 

 まず私たちは改めて「徳」という言葉に心を向けましょう。元々のギリシヤ語では“アレテー”(areteh)という言葉です。これをバウアー(Bauer)の辞書で調べますと最初の訳語として“moral exellence”とあります。つまり「卓越した倫理」という意味です。しかし、それに続いてバウアーは興味ぶかいことを語っています。それは「古代ギリシヤ語の用例に従えば、この“卓越した倫理”とはただ神の力によるものであって、人間的な道徳心を意味するものではなかった」と言うのです。

 

もちろんこの「神」というのは古代ギリシヤ神話の神々のことであって、主イエス・キリストの父なる神ではありません。しかしそれにしても、バウアーが指摘していることはとても大切であると思います。「この“卓越した倫理”とはただ神の力によるものであって、人間的な道徳心を意味するものではなかった」。使徒パウロはまさにこの神こそ「主イエス・キリストの父なる真の神」であると宣べ伝えているからです。

 

 そのとき、私たちがすぐに思い起こす御言葉はコロサイ書119節と20節です。そこにはこのように告げられています。「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである」。ここでパウロが明らかにしていることは、主なる神は御子イエス・キリストの内にこそ、@「すべての満ちみちた徳を宿らせ」、A「十字架の血によって平和を造られ」、B「万物を御子イエスによってご自分と和解させて下さった」という福音の真実です。これこそ「神の力」による「徳と誉」の内容なのです。

 

 言い換えるなら、こういうことです。私たち人間の中には、いかなる意味においても主なる神の御前に喜んで戴ける「徳」や「誉」は無いのです。それはただ十字架の主イエス・キリストの内にのみあるのです。否、さらに言うならこういうことです。私たちの内には「徳と誉」どころか「罪と恥」しかないのではないでしょうか。主なる神に喜んで戴ける「徳と誉」などは微塵もなく、ただ「罪と恥」のみがあり、しかもそれが「満ちみちている」のが私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。

 

 罪とは一言で言うなら「私たちが神の外に出てしまうこと」です。それこそ人間として「ありうべからざること」であるのにもかかわらず、私たちは「神の外に出てしまうこと」にこそ、私たちの本当の自由があるのだと心得違いをして、自分の欲望の赴くままに生きているというのが現代人の姿なのです。そしてその道の行き着く先にはニーチェが語るように絶望と虚無しかありません。

 

ニーチェは「神は死んだ」(Gott ist todt! Gott bleibt todt!=神は死んだ!神はこれからも死に続ける!)と宣言し、これから先の時代を全ての人間は「超人」として生きてゆく以外に救いはないと語っているのですが、ではその「超人」とは何であるかと言いますと、それは「絶望と虚無を自らの内に摂取する存在になること」なのです。言い換えるなら「罪を自己処理できる人間になること」それがニーチェの言う「超人になること」です。

 

 しかし、それは絶対に不可能なのです。私は滅多に「絶対」という言葉を使わないのですが(「ラグビー日本代表は絶対にスコットランドには勝てない」と言ったことは認めます)事ここにおいては使わざるをえません。私たち人間は、自分の罪を自己処理することは絶対に不可能なのです。私たちは「超人」には絶対になりえないのです。そして「神の外に出てしまった」私たちは「ありうべからざる場所」に生きることになったのですから、その当然の帰結として「ありうべからざること」が起こるようになったのです。それが罪の結果としての死の真相です。

 

 それならば、まさにその「神の外に出てしまった」私たち、そしてその当然の帰結として「ありうべからざること」が起こるようになった私たちを救い、真の生命を与えるために、神の御子イエス・キリストは、私たちの罪と死を担い取って、あの呪いの十字架におかかり下さったのです。そして私たちの罪と滅びを十字架の死において贖い取って下さり、私たちに救いと真の生命を(永遠の生命を)与えて下さったのです。「神の外に出てしまった」私たちを救うために、神の永遠の御子みずから神の外に出て下さったのです。それが十字架の出来事なのです。

 

 すると、どういうことになるのでしょうか。「神の外に出てしまった」私たちを救うために、神の永遠の御子みずから神の外に出て下さった、それが十字架の出来事であるのならば、先ほどのコロサイ書119,20節が語っているように、まさに十字架の主イエス・キリストの内にこそ、つまり、神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に出て下さった神の御子イエス・キリストの内にこそ「満ちみちた徳」が「宿って」いるのではないでしょうか。言い換えるなら、今朝のピリピ書48節で言うところの「全ての徳と誉」とは、キリストの十字架による私たちの救いの出来事を示しているのです。まさにそれを「心にとめなさい」とパウロは私たちに勧めているのです。「また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。

 

 かくして「誉=称賛に値するもの」という言葉の意味も、今まで語ってきたことからおのずと明らかでありましょう。「罪と恥」しかありえなかった私たちをその罪とと滅びから十字架による贖いによって救って下さった主イエス・キリストの御業こそ、真に崇めるべき「誉」であり「称賛に値するもの」ではないでしょうか。そのようにして私たちはキリストの御業を知れば知るほど、まことの礼拝者への道を歩む神の僕と成長してゆきます。それこそ今日の週報にも載せてありますジョン・ノックスの祈りの言葉を、私たちもまた心に留めて参りたいと思うのです。このノックスの祈りをもって、最後に、共に祈りましょう。

 

 「愛と慈しみに富みたもう全能の父なる神よ。願わくは汝の御手の被造物なる我等一同をして限りなく聖名を尊ませたまえ。我らをして常に御言の光によりて生命の道を歩ましめ、汝の栄光をあらわす僕とならしめたまえ。願わくは我等をして汝の慈愛の長さ広さ深さ高さを切に悟らしめ、汝の無限の御恵みに堅く拠頼む聖徒の群れとならしめたまえ。かくて御子主イエス・キリストが十字架に成遂げたまいし罪の贖いのゆえに、ただその御功の故に、我らを永遠の御国の民とならしめ、御名を崇め従いまつる礼拝の民へと導き強めたまえ。御国と力と栄光は永遠に汝のものなればなり。主の御名によりて祈りたてまつる。アーメン」。