説    教       詩篇14311節   ピリピ書48

               「愛すべく令聞あること」 ピリピ書講解(39

               2019・10・20(説教19421825)

 

 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。今朝はこのピリピ書48節の3回目の学びとなります。「すべて愛すべきこと、すべてほまれあること」に私たちの心を留めたいと思います。まず「すべて愛すべきこと」とは、いったいどのようなことを指しているのでしょうか。使徒パウロがこの手紙をピリピの教会に宛てて書き送ったとき、パウロの心の中にどのような祈りが、またどのような願いと思いがあったのでょうか。

 

 私が40年間愛用しているギリシヤ語の辞書があります。ドイツの新約学者ヴァルター・バウアーが編纂したもので、俗に「バウアーの辞書」というものです。これを見ますと「愛すべきこと」の原文であるプロスフィレーには「喜ばしいこと」という意味があることがわかります。むしろ「喜ばしいこと」と訳されるべき言葉であるというのがバウアーの主張のようです。そこで私たちに問われていることは、この言葉が何を根拠として語られているかです。つまり、このプロスフィレー(愛すべきこと)といfう言葉は、私たち人間の感情の中に根拠を持つ言葉なのか、それともパウロの他の8節の言葉が全てそうであるように、ただ主イエス・キリストの恵みの中に根拠を持つ言葉なのか、それを正しく読み取らなければなりません。

 

 そのとき、いま紹介したバウアーは、このプロスフィレーの用例として「神に喜ばれること」つまり「神にとって喜ばしいこと」という文章が古代ギリシヤの古文書の中にあることを指摘しているのです。つまり今朝のピリピ書48節の「愛すべきこと」というのは「主なる神にとって喜ばしいこと」すなわち「主なる神の喜びたもうこと」という意味であることがわかるのです。私たち人間の感情の中に根拠を持つ言葉なのではなく、つまり私たち人間にとって「喜ばしいこと」という意味ではなくて、主イエス・キリストの恵みの中にのみ唯一の根拠を持つ言葉、それが「すべて愛すべきこと」なのです。そのような大切なことがわかるものですから、私は神学校時代からずっと「バウアーの辞書」を愛用している次第です。

 

 さて、そういたしますと、実は今朝のこの「すべて愛すべきこと」という言葉は、実はたいへん厳しい言葉であることがわかるのではないでしょうか。それは、この言葉は「私たちが喜ぶこと」ではなく「主なる神の喜びたもうこと」を意味するのですから、それは私たちの日々の生活そのものを鋭く問う「神からの問い」として私たちの心に響かざるをえないのです。端的に申します。私たちは日々の日常生活において「主なる神の喜びたもうこと」をなしえているのでしょうか。ここに集まっている私たちのいったい誰が「はい、私はいつも、主なる神の喜びたもうことをしています」と、胸を張って応えうるのでしょうか。

 

 ルカによる福音書189節以下に、ふたりの人が同じ時に祈るために神殿に入った時の様子が主イエスによって語られています。9節を見ますと「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった」と記されています。そこで10節以下を口語でお読みいたします。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 

 主イエスの時代「パリサイ人」というのは一般民衆から非常に尊敬されていた人々でした。今日で言うなら、神殿の祭司であると同時に、最高裁判所の裁判官であり、国会議員であり、道徳的にも完全無欠であると信じられていた人たちです。「パリサイ」という言葉そのものが「聖別された人たち」という意味です。かたやもう一人は罪人の代名詞であった「取税人」でした。取税人はローマ帝国が定めた人頭税を取立てるために、ローマの手先になって民衆を苦しめている憎き輩、まさに売国奴でありユダヤ人の恥と見なされていた人物です。

 

この二人が「祈るために宮に上った」のです。当然ながら、パリサイ人は神殿の最前列、祭壇の前に立って、堂々とこう祈りました。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。

 

 かたや取税人のほうはどうであったかと申しますと、彼は「遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」。「胸を打ちながら」というのは深い悔改めの徴です。自分はとうてい神の御前に立ちうる存在ではない。赦して戴ける存在ではない。神に審かれ滅ぼされる以外にない者である。その深い嘆きをもって「取税人」は「胸を打ちながら」絞り出すようにたった一言「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったのでした。主なる神様、あなたの御前に立ちえざる、赦しを戴きえない罪人なる私です。しかしどうぞこの私の罪をお赦し下さい。あなたの御赦しなくして生きえない私です。あなたの憐れみなくして立ちえざる私です。主なる神よ、どうぞ罪人なるこの私をお赦し下さいと涙ながらに祈りを献げたのでした。

 

 まさにそこでこそ、主イエス・キリストは驚くべきことを言われます。宣言して下さいます。「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と。ここで主イエスが言われる「神に義とされて家に帰る」とは「主なる神による罪の贖いの恵みにあずかり、新たにされて日々の生活に遣わされる」という意味です。そもそも「義」という漢字は「我の上に神の永遠の子羊なる主イエス・キリストを戴く」という字です。ここにパリサイ人と取税人との決定的な違いがありました。パリサイ人は最初から最後までただ自分の正しさと清さにのみ拠り頼んでいました。かたや取税人は「我という罪人の上に神の永遠の子羊なる主イエス・キリストを戴いた者として」新しい生命の歩みを、キリストの恵みの内を歩む者とされたのです。復活の生命に歩む神の僕とされたのです。

 

 私たちも、否、私たちこそ、それと同じではないでしょうか。私たちはパリサイ人になってはならないのです。いつもこの取税人の祈りに生きる、生き続ける私たちでありたいのです。そしてまさにそのことこそ、今朝の御言葉が告げている「すべて愛すべきこと」の内容なのです。私たちが自分の心を喜ばせることが「すべて愛すべきこと」なのではない。そうではなく「主なる神が喜びたもうこと」こそが「すべて愛すべきこと」の内容なのです。そして「主なる神が喜びたもうこと」こそあの取税人の祈りに私たちが日々新たに生きることではないでしょうか。

 

 そのように今朝の御言葉を共に読んで参りますと、次の「すべてほまれあること」の意味もおのずと明らかになってくるのです。ここは文語訳では「凡そ令聞あること」です。この「令聞(よききこえ)あること」というのも、私たち人間の感情を根拠として語られてはいません。つまり世間的な名誉や栄誉栄達のことをさしているのではないのです。私たちち人間の耳に「聞こえめでたきこと」が大事なのではないのです。そうではなく、ただ主なる神に「令聞あること」が大切なのです。

 

昨年の夏に天に召された私の友人、高松の水野穣牧師がよく私に語っていました。「俺たちにとっていちばん大切なことは、ただ神の御前に『聞こえめでたきこと』だよな。それさえ確かならば、他のことなんかどうだって良いんだよな」。私も全く水野牧師の言葉に同感です。主なる神の御前に「聞こえめでたきこと」さえ確かならば、それ以外のことは「どうだって良い」のです。マタイ伝633節を改めて心に留めましょう。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。まさにここでこそ、優先順位を入れ替えてしまう私たちであってはならないのです。取税人の祈りを忘れて、パリサイ人になってしまう私たちであってはならないのです。

 

 そうならないために、何が大切なのでしょうか。それこそ「すべて愛すべきこと、すべてほまれあること」に常に「心をとめる」ことなのです。この「心にとめる」とは「まなざしを留めて離さないこと」です。バルトの言葉で言うならば「美しの門のかたわらの物乞いの人になること」です。彼は門の傍らでペテロとヨハネに出会いました。ペテロが「わたしたちを見なさい」と言いますと、彼はそれこそ真剣にペテロとヨハネを見つめました。それこそ「まなざしを留めた」のです。その彼にペテロが宣言します。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。そのとき、この人に救いが訪れました。主イエス・キリストによる神からの「義」に覆われて生きる新しい希望の人生がそこに始まったのです。

 

 使徒パウロは愛するピリピの教会の信徒一人びとりを心に留めつつ、今朝の御言葉において「すべて愛すべきこと、すべてほまれあること」に「心をとめなさい」と勧めます。それこそ「ナザレ人イエス・キリストの御名によって歩く」ことです。同じ恵みの生活へと、ここに集う私たち一人びとりが新たに招かれ、召し出され、生きる僕とされているのです。祈りましょう。