説    教       箴言162節   ピリピ書48

               「正しく純真なること」 ピリピ書講解(38

               2019・10・13(説教19411824)

 

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。今朝はこのピリピ書48節の2番目の学びとして「すべて正しいこと、すべて純真なこと」をご一緒に心に留めたいと思います。説教題を「正しく純真なること」といたしました。

 

もっとも、この部分のギリシヤ語原文を見ますと「全て正しいこと、全て純真なこと」というように、言葉の一つひとつが独立しています。しかしながら、使徒パウロがこの手紙をローマの獄中において書いたとき、2つずつの言葉を一括りとして意識していたのではないかと思われるのです。それで今朝の説教題を「正しく純真なること」といたしました。

 

 少し文法の話をします。神学校では当然ながらギリシヤ語を学びます。私がいた頃は古典語だけでもラテン語、古典ギリシヤ語、ヘブライ語の3つが義務づけられていました。加えてアラム語、シリア語、ウガリット語などを希望者は学びます。ウガリット語というのは楔形文字です。いま祈祷会でダニエル書を学んでいますが、預言者ダニエルがいた紀元前6世紀のバビロニアで用いられていたのが楔形文字です。そこで、このような古典語にはヘンダイアジス(hendiadys)という特別な文法規則があるのです。2つの名詞が並列の接続詞に繋がれてひとつの形容詞句になるという規則です。現代の英語にも“death and honorhonorable death”というように名残があります。今朝の「すべて正しいこと、すべて純真なこと」はまさにこのヘンダイアジスなのです。それで説教題も「正しく純真なること」としたわけです。

 

 さて、そのように今朝の御言葉を理解いたしますとき、そこで明らかになることは「正しいことは純真なることであり、純真なることはすなわち正しいことである」という明確な意味上の繋がりです。しかし、そこで私たちはいささか戸惑うのではないでしょうか。それは、私たちの世間的な常識で申しますなら、正しいことは必ずしも純真なことではなく、その逆に、純真なことは必ずしも正しいこととは限らないからです。更に言うなら、この世の中には「薄汚れた正しさ」というのもあるし、その逆に「正しくない純真さ」というのもあるのだ、そう私たちは心のどこかで感じているのではないでしょうか。「嘘も方便」「盗人にも三分の理あり」「水清ければ魚棲まず」と言うではないか。それが私たちの世間的な常識です。本音なのです。

 

 それならばなおのこと、私たちは今朝の御言葉に改めて驚き、新鮮な思いをもって読まざるをえないのではないでしょうか。「正しく純真なること」こそ、主なる神の御前に喜ばれることだ。神の御栄を現すことだ。私たちキリスト者の主に結ばれた生活のマナーだ。改めて私たちはこの真理を学び直さなくてはならないと思うのです。そのとき、私たちの心に響く旧約聖書の御言葉があります。それが今朝併せて拝読した箴言162節です。「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる」。文語訳ではこうなります。「人の途はおのれの目にことごとく潔しと見ゆ 惟ヱホバ霊魂をはかりたまふ」。

 

 この箴言162節が私たちに語り告げていることは実に明快です。例えて言うなら、私たち人間は誰しも、心の中に人知れず「秘密の部屋」を作っています。なにか困難なことや難しい場面に直面した時、難しい判断を迫られた時、私たちはまず主なる神に自分を委ね、祈りを献げるべきであるにもかかわらず、まず私たちがしてしまうことは、自分の心の中の「秘密の部屋」に逃げ込むことなのではないでしょうか。そして誰も見ていない、観られていないはずの心の中の秘密の部屋で、私たちは自問自答するのです。「そうだ、私は正しいのだ。私は間違ってなんかいない。安心してこのことをなし、あのことも実行しよう」と。

 

 しかし箴言162節は、そのような私たちの心の中の「秘密の部屋」から私たちを自由にしてくれます。「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる」。ここで言う「魂」とは私たちの心の奥底、私たち人間を人間たらしめる人格(personality)をさしています。言い換えるなら信仰のことを意味しているのです。ただ生ける主なる神の御言葉のみが、神の御子主イエス・キリストの救いの御業のみが、私たちを心の中の薄暗い「秘密の部屋」を打ち破り、私たちに真の自由と平安を与えて下さいます。そこで私たちに求められているものは信仰だけです。先週の御言葉「凡そ真なること」で申しますなら、まさに「私たちの救いのために神の御子イエス・キリストがなして下さった全ての御業」のみが、私たちに真の自由と平安を与えて下さるのです。

 

 まさにそのことを、まさに「私たちの救いのために神の御子イエス・キリストがなして下さった全ての御業」のみを、箴言の預言者は私たち全てに語り告げているのです。「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる」と。私たち人間の罪の本当の恐ろしさは何であるかわかりますか?。それは自己義認(self-justification)なのです。自分で自分を正しいとすることです。自己正当化の罪です。それは自分を神の立場に祭り上げようとすることです。ですからニーチェが洞察したように自己義認とはすなわち偶像崇拝なのです。ニーチェはその偶像に膝を屈めてしまいましたが、その結末は絶望でしかありませんでした。私たちは偶像によっては決して救われないからです。偶像は私たちを不自由にし、罪を犯させ、絶望に引き込むだけだからです。救いはただ主なる神にのみあるのです。

 

 私たちはユダとペテロの違いをどのように理解しているでしょうか。ユダとペテロは犯した罪の大きさは全く同じでした。否、3度も主イエスの御名を拒んだペテロのほうがユダよりももっと大きな罪を犯したと言えるのです。しかし2人には決定的な違いがありました。まず、ユダは自分が犯した恐ろしい罪の救いを祭司長たちに、つまり人間に求めてしまいました。