説    教       イザヤ書4214節   ピリピ書48

               「真にして尊ぶべきこと」 ピリピ書講解(37

               2019・10・06(説教19401823)

 

 「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。これが今朝、私たちに与えられた福音の御言葉、ピリピ書48節です。私たちはこの8節の御言葉をこれから3週間にかけて学ぶことといたします。今日はその最初「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと」とあることにご一緒に心を留めましょう。

 

 東京女子大学というキリスト教主義の女子大学があります。通称を「トン女」と言います。東京の吉祥寺にある学校ですが、東京神学大学の卒業生が歴代の学長を務めていることからもわかるように、東京神学大学とたいへん関係の深い女子大学です。ミッションスクールではないキリスト教主義の女子大学です。この東京女子大学の正面にある本館の壁にラテン語で“QUAECUNQUE SUNT VERA(クェカンクェ・スント・ヴェラ)と刻まれています。これは今朝のピリピ書48節「すべて真実なこと」のヴルガタ訳です。

 

この標語が今日、どれだけ東京女子大学の教育理念に実際に生かされているかはわかりません。しかし創立者であるオーガスト・ライシャワー宣教師(エドウィン・ライシャワー元駐日大使の父上)がこの標語を定めたとき、彼はこの御言葉にこそ日本におけるキリスト教主義大学の最も大切な歩みがあると考えたのです。しかし、それはいわゆる「真実なこと一般」という意味ではありません。そうではなく、ここで言われている「すべて真実なこと」の「真実」とは主イエス・キリストの救いの御業をさしています。それ以外の意味ではないのです。ですから「すべて真実なこと」とは「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」という意味です。長老教会の宣教師であったオーガスト・ライシャワーはまさにその意味でこそこの標語を定めたのです。「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」それに「私たちの心をとめなさい」と。

 

 そのような意味で、今朝のこの48節は当時のローマ帝国統治下の地中海世界において、特別な意味と響きを持つ言葉でした。端的に申して、ローマ帝国というのは標語が好きな国家でした。何か大きな国家的行事があれば標語が作られ、皇帝が代われば標語が作られ、歴史的な事件や出来事があれば標語が作られました。ようするに標語が一般民衆に対する教化の役割を果たしていたわけです。日本でも戦時中に「進め一億火の玉だ」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などといった標語が量産されました。同じく戦時下のドイツでも「総統(Fueler)のもとに勝利あり」とか「最後の勝利をめざして我らは一致団結する」といった標語が作られました。アメリカでも「アメリカは君の献身を必要としている」とか「戦うかしからずば隷属か」などの標語が巷に溢れました。最近では共産主義国家が標語を量産しています。何が言いたいかと言いますと、国家的権威と標語は仲が良いのです。標語はおもに国家的権威の代弁者として用いられたのです。それでは、今朝のこのピリピ書48節もそのようなものの一種なのでしょうか。

 

 もちろん、そうではありません。繰返し申しますが、この「すべて真実なこと」とは「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」のことなのであり、それ以外の意味はないのです。ですから、この48節に接したピリピの教会の人たちはとても驚いたと思います。そしてまなざしを開かれる思いがしたのではないでしょうか。それはここに、あらゆる国家的権威にも遥かにまさる唯一の権威として「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」が宣べ伝えられているからです。スコットランドの神学者フォーサイスの言葉で言いますなら「キリストの救いの権威」です。その「キリストの救いの権威」こそ、あらゆる国家的権威に遥かにまさる唯一の真の権威だからです。

 

 そして意外に私たちが「心にとめる」ことを忘れてしまうのが8節の最初の「最後に、兄弟たちよ」というパウロの言葉です。これは文語訳を見ますと「終に言はん、兄弟よ」と訳されています。つまり口語訳では単なる繋ぎの枕詞として用いられている「最後に」が、文語訳聖書では「終に言はん、兄弟よ」とあるように、まさにこの説教の言葉を締め括ろうとするにあたり、最も大切なこととしてピリピの全教会員が心にとどめるべき大切な標語を伝える、そういう意味で、この8節は福音に基づくキリスト者の標語であることがわかるのです。

 

 そしてさらに申しますなら、この「終に言はん、兄弟よ」の「終に」という言葉は、実は使徒パウロの地上の人生の終わりをも示唆しているのではないでしょうか。事実このピリピ書をパウロはローマの獄中で書いているのです。いつ何時引き出されて処刑されるか知れない切羽詰まった極限状態の中で、パウロはいわば「遺言」(=テスタメント)としてこの48節を書いているのではないでしょうか。それこそ「すべて真実なこと」すなわち「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」を「心にとめなさい」という「遺言」ではなかったでしょうか。

 

 もう12年前になりますが、大阪・森小路教会の永井修先生が天に召されたとき、私は馳せ参じるように葉山から永井先生の葬儀に出席いたしまして、葬儀の司式をされた黒米牧師から、永井先生の生前最後の礼拝説教となった説教の原稿を戴きました。それを見ますと永井先生はこういうことを語っておられます。自分はもう長くは地上の生活はできない。それはよくわかる。だからこの礼拝説教が自分の最後の説教になるだろう。それで皆さんに心からお願いがある。皆さんは私が天に召されたら葬儀に出席して下さるであろう。それはありがたい。嬉しい。しかしそれよりも、もっと切なる思いで皆さんにお願いしたいことがある。それは、私の葬儀なんかに出席しなくても良いから、毎週の礼拝への出席を大切にして戴きたいということだ。永井先生はそのように最後の説教の中で語っておられるのです。私はそれを読んで、ああ本当に永井先生らしいメッセージだと思いました。まさに今朝の御言葉で言うなら、ここにこそ「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと」が現れているのではないでしょうか。

 

 私の葬儀なんかに出席して下さらなくても良い。そのようなことより、どうか毎週の礼拝出席を大切にして頂きたい。これこそ真の牧会者の言葉である、標語であると思うのです。一人の人間の葬りよりも遥かにプライオリティの(優先順位の)あることがあるのです。それこそ「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」に「心をとめる」ことです。毎週の主日礼拝を大切にすることです。毎週の礼拝説教を真剣に、正しく聴く者になることです。そして主の制定された聖餐にあずかる者になることです。それにまさって大切なことがどこにあるか。それにまさって素晴らしいことがどこにあるか。それにまさって優先すべきことがどこにあるか。そのように永井先生も、使徒パウロも、今朝の御言葉によって私たち一人びとりに語り告げているのです。

 

 そのようにして今朝の御言葉は続く「すべて尊ぶべきこと」という御言葉に続きます。しかしこれも、実は「すべて真実なこと」と轍を一つにする御言葉なのです。なぜなら、私たちキリスト者にとって「私たちの救いのために主イエス・キリストがなして下さった全ての御業」以上に「尊ぶべきこと」はありえないからです。その意味でこそ、今朝のこの説教においてこの2つの言葉が一つの説教として語り告げられることの意味を理解して戴けるだろうと思います。文語訳で申しますなら「終に言はん、兄弟よ、凡そ眞なること、凡そ尊ぶべきこと、凡そ正しきこと、凡そ潔よきこと、凡そ愛すべきこと、凡そ令聞あること、如何なる徳いかなる譽にても、汝等これを念へ」であります。今朝はそのうちの最初の2つ「凡そ眞なること、凡そ尊ぶべきこと」を心に留めつつ、十字架の主イエス・キリストの御業に、しかもそれが私たちの唯一永遠の救いとしての主の全ての御業を心に留めることであることを学んだわけです。

 

 もう一度、文語でお読みして終わりましょう。終に言はん、兄弟よ、凡そ眞なること、凡そ尊ぶべきこと、凡そ正しきこと、凡そ潔よきこと、凡そ愛すべきこと、凡そ令聞あること、如何なる徳いかなる譽にても、汝等これを念へ」。ここにこそ私たちキリスト者の、主に結ばれて生きる日々の生活の幸いと自由、喜びと祝福があるのです。祈りましょう。