説    教       民数記62226節   ピリピ書47

               「神の平安」 ピリピ書講解(36

               2019・09・29(説教19391822)

 

 今朝、私たちに与えられたピリピ書47節の御言葉を、改めて6節からお読みしたいと思います。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。

 

 ここに使徒パウロは、愛するピリピの教会の人々に「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」と語り告げています。当時のピリピの教会は大きな困難と試練の中にありました。私たちはこのピリピ書が別名を「喜びの手紙」と言われていることを知っています。しかし現実のピリピの教会には、喜びよりも苦しみが、平安よりも恐れが、感謝よりも疑いが、慰めよりも思い煩いが、支配していたのです。

 

 特に、教会員一同を苦しめていたものは、いわゆる「偽教師」たちによって説教壇が独占されたことでした。主日礼拝の説教において、主イエス・キリストの福音ではなく、人間の知恵と律法による救いが宣べ伝えられていたことです。しかも、ピリピの教会の少なからぬ人々が、その偽教師らの語る偽りの福音に惑わされ、感化されて、教会の内部が3つのグループ(グノーシス派、律法派、福音派)に分裂するという悲劇が現実に起こっていました。その教会分裂の悲劇の中で使徒パウロは、遠くローマの獄中よりこのピリピ人への手紙を書き送り、全ての人の唯一の救いと平安はただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあることを明らかにしました。

 

そこで、今朝の御言葉46節と7節は、まさに獄中でこの手紙を書き綴った使徒パウロの熱き祈りが、漲り迸っているところであると言えるでしょう。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。

 

 ここにパウロは「神の平安」という言葉を用いています。これは今日、キリスト者が手紙を書く場合の書き出しの言葉としてもよく見られるようになりました。手紙の冒頭にまず「神の平安」または「主の平安」と書くことは、ずいぶん以前からキリスト者の一つの習慣、というよりも決まり文句(約束事)のようになっている感があります。しかしどうでしょうか。私たちはそれを手紙の冒頭に書くかどうかは別として「神の平安」という言葉をずいぶん安易に、ある意味では自分勝手に用いているのではないでしょうか。

 

 その「自分勝手」と申します第一の理由は、私たちはこの「神の平安」という言葉を、一種の呪文のようにしてしまっていることです。呪文というのは、自分の実感が伴わない空虚な願い事という意味です。ですから逆の意味で、私たちはこの「神の平安」という言葉に対して距離を置くようになっています。聖書の中にこの言葉が出てくるのはわかる。しかし自分ではこの言葉は使わない、使えない、使いたくない、むしろ使うべきではない。そのような距離感覚を、遠慮を、余所余所しさを、非現実感を、私たちはいつのまにか「神の平安」という言葉に対して持ってしまっていることはないでしょうか。

 

 もしそうならば、改めてここに確認したいのです。使徒パウロは紛れもなく、苦しみ、怖れ、疑い、思い煩いの只中にあったピリピの教会の人々に、そして現実の様々な戦いや試練の中にある私たち一人びとりに、今朝のこの47節を語り告げているのです。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。

 

 ところで、私たちは「平安」という言葉と「平和」という言葉の違いを心得ているでしょうか。意識しているでしょうか。「平安」と「平和」は一見似ていますけれども意味は違うのです。「平和」という場合は、その強調点は「和」にあります。和というのは基本的には人間同士の和であり、言い換えるなら人間同士の調和、助け合い、支え合い、仲良くすること、一致すること、協力すること、それが「平和」という言葉の意味です。ですから「平和」とは人間を主語にした言葉であると言えるでしょう。人間同士の「和」がその目的であり中心だからです。

 

それに対して「平安」と言いますと、それとはずいぶん違うと思うのです。「平安」の強調点は「安」という字にあります。ご存知のように漢字は元々は象形文字であるわけですが、この「安」という字は女性が大きな屋根の下で守られている状態を表すと言われています。社会の中で弱い存在である女性が、大きな屋根の下でしっかりと守られている状態、それが漢字があらわす「安」という文字の意味です。次に、私たちは聖書が言う「平安」の元々のギリシヤ語に心を向けてみましょう。ギリシヤ語では「平安」は“エイレーネー”という言葉です。これはただ単に、人間同士の争いや対立が無い状態をあらわすだけではなく、更に進んで「神に対して平和(主イエス・キリストの十字架による神との和解)を得ている状態」をあらわす言葉です。

 

 そこで、新約聖書の中ではこの“エイレーネー”が文脈によって「平安」とも「平和」とも訳されているわけですが、気をつけて戴きたいのは、たとえ「平和」と訳されている場合でも、その元々の言葉は“エイレーネー”なのですから、その意味は平安と同様に「神に対して平和(主イエス・キリストの十字架による神との和解)を得ている状態」なのです。さらに申しますと、旧約聖書の「平安」(シャローム=神の生命の充満=永遠なる神と共にあること)と“エイレーネー”は密接に繋がっています。そのような御言葉を幾つか、ご一緒に心に留めて参りましょう。

 

 まず心に留めたいのはローマ書51節です。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。これは私たちの葉山教会で月の第一主日に礼拝招詞として読まれている御言葉です。この言葉に示されている福音は、私たちはただ主イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ「神に対する平和=エイレーネー=平安」を与えられているのだということです。その確かな聖霊による徴として「信仰によって義とされた」という義認の出来事があるのです。つまり、私たちが十字架の主イエス・キリストによって戴いている救いはまことに具体的で、それは神に対して敵対し、反逆し、叛くよりほかになかった自分中心の私たちが「信仰によって義とされ、神に対する平和を与えられたこと」なのです。

 

 次に心を留めたいのはヨハネ伝1427節です。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。これは弟子たちに対する主イエスの十字架の予告に続いて語られた御言葉です。ここで大切なことは、主イエスは私たちに「わたしの平安をあなたがたに与える」と言われ、主の平安を受けるために、私たちが主イエスの御身体なる教会(礼拝共同体)に連なっていることが大切であることを示されました。そしてまさに主の御身体なる教会に連なる私たちに「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」とはっきり語られたことです。

 

 最後に、私たちはヨハネ伝2021節に心を留めたいと思います。「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。ここでは「平安」が「安かれ」という動詞の形で告げられています。主イエスの十字架の後、怖れと疑いに取りつかれた弟子たちはマルコの家に集まり、戸と窓とをみな閉ざして隠れていました。そこに復活の主イエス・キリストが入って来て下さいます。戸も窓も全て閉ざされていたのに、怖れと疑いに取りつかれていた弟子たちのもとに、私たちの現実の只中に、復活の主は来て下さいます。そして告げて下さったのです。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と。

 

 ピリピの教会の人たちも、2つにも3つにも分裂してしまった教会の群れの現実の中で、苦しみ、怖れ、疑い、思い煩いに取りつかれ、支配されていました。私たちの現実の生活の中にも、同じことがあるのではないでしょうか。私たちは人生の様々な困難な場面で、いつも苦しみ、怖れ、疑い、思い煩いに支配されて、御言葉を見失い、主イエス・キリストのご臨在を見失い、神を見失っていることはないでしょうか。しかし主は、そのような私たちのただ中にこそ、復活の恵みをもって臨在して下さいます。そして御声をかけて下さいます。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と。

 

 主は言われるのです。あなたこそ、私の恵みの力を受けて、私の平安を受けて、悩みや疑いの中から立ち上がり、私と共に歩むことのできるその人なのだ。私はあなたのために、あなたの救いと復活のために、いまここに来ている。まさに私たち全ての者たちのために、いまこの御言葉が宣べ伝えられているのです。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。この主イエス・キリストの恵みの御手に、いま私たちみずからを明け渡し、投げ出す、そのような主の僕たちの歩みを、新たにさせて戴きましょう。そのとき、私たちの人生に何が起こるか、私たちの日々の歩みに、どのような幸いが立ち現れるか、それこそ今朝のピリピ書47節に告げられていた恵みと幸いなのです。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。

 

 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。なぜか。主はあなたのために、十字架におかかり下さった救い主だからです。主はあなたのために、死から甦られた復活の主だからです。主はあなたのために、いま臨在しておられる贖い主であられるからです。この 恵みを受け、この恵みの内を歩む者とされて、私たちは、私たちこそ、私たち全ての者が、いま「神の平安」に生きる僕たちとされています。ただ主の御名を崇めつつ、新しい一週間を、信仰の旅路を、歩んで参りたいと思います。祈りましょう。