説    教       詩篇5522節    ピリピ書46

               「汝の重荷を主に委ねよ」 ピリピ書講解(35

               2019・09・22(説教19381821)

 

 今朝の御言葉はピリピ書46節です。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。

 

しかし私たちは、これを聴いて些か戸惑うのではないでしょうか。ここに使徒パウロはピリピの教会の人々に対して「何事も思い煩ってはならない」と告げています。しかし、私たちはすぐに思うのです。「思い煩いの無い人間(人生)など、ありうるのだろうか」と。ドイツの詩人にして植物学者であったゲーテは「人間は努力する限り迷うものだ」と語りました。私たち人間の人生は絶えざる思い煩いの連続だと言っても過言ではありません。もし「思い煩い」の無い人がいたとしたら、それはゲーテの言葉を借りて言うなら「努力したことのない人」でありましょう。人間は努力する限り思い煩うものなのです。

 

 では、それなら、なぜパウロはここに、愛するピリピの教会の人たちに「何事も思い煩ってはならない」と語り告げているのでしょうか。まず私たちは「思い煩い」と聞いて、どのような心の状態を思い浮かべるでしょうか。ふつう日本語で「思い煩い」と言いますと、それは「気苦労」のことをさしています。「取り越し苦労」と言っても良いでしょう。そして「取り越し苦労」と言いますのは、まさに主イエスがマタイ伝634節で弟子たちに対して「明日のことを思い煩うな」と言われたことに繋がります。ここをもう少し詳しく見て参りましょう。マタイ伝633節以下です。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。

 

 ここに主イエスは弟子たちに、私たち全ての者に「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われます。この「神の国と神の義」とは「神の恵みの永遠のご支配、そしてキリストの義に覆われて生きること」です。私たち人間がすべてにまさって第一に求めるべきもの、人生の最大の目的となすべきもの、言い換えるなら、私たち人間を真に生かしめるもの、それこそ「神の恵みの永遠のご支配、そしてキリストの義に覆われて生きること」であると主イエスははっきりと言われるのです。

 

 私は高校生の頃、陸上の選手でした。先日オリンピックのマラソンに出場する選手が選ばれましたが、その緊張感というものを私も少しだけ理解することができます。長距離を走るとき、いちばん心配なものはコースの状態です。ですから必ず、走ることになるコースをあらかじめ何度も走って、状態を確認しておきます。あそこの坂道はどの程度続くかとか、あそこは道路が凸凹しているから気をつけたほうが良いとか、あそこの角を曲がると急に道が狭くなっているとか、そのようなコースの状態を脳裏に焼き付けてから実際の競技に臨みます。しかし時々、たとえば競技会場が遠方にある場合など、その事前確認が自分ではできない場合があります。そのようなとき唯一の頼りになるのがナビゲーターの存在です。まだ走っていないコースの状態をよくわかっている人から事前に話を聞いて、頭の中におおよその状態をインプットしておくことです。そうしたナビゲーターの存在がどんなに心強いか、それを陸上長距離の選手であったときに少しだけ経験しました。

 

 それならば、私たちの主イエス・キリストは、まさに私たちの人生のナビゲーターになって下さるかたなのです。私たちには人生の旅路が思い描けません。よく「人生一寸先は闇」と言いますけれども、本当に私たち人間は一寸先のことさえわからないで、暗闇を手探りで進むような人生を歩んでいるのではないでしょうか。だからこそそこに「思い煩い」が生まれます。「気苦労」が生じます。「取り越し苦労」をしてしまうのです。悲観的になり、自暴自棄になり「こんなはずではなかったのに」と激しく後悔し、絶望に陥るのです。文字どおり「後悔先に立たず」という経験をするのではないでしょうか。言い換えるなら、私たちは自分の人生の「主」となることはできないのです。「一寸先は闇」の人生を歩む私たちが、どうして自分の人生の「主」であることなどできるでしょうか。

 

 しかし、その私たちの人生の「主」が十字架と復活の主イエス・キリストであられることを知るとき、私たちの人生は根本から新しく変えられるのです。それは私たちが人生のナビゲーターを持つことの幸いです。ある牧師先生が、キリストを信じて教会に連なって歩む人生のことを「人生一寸先は光」だと言いました。それはとても素敵な言葉だと思いました。「人生一寸先は闇」の現実が根本から新たにされて「人生一寸先は光」に変えられるのです。それがキリストを唯一の主とし、キリストを信じ、キリストと共に歩むキリスト者の人生の幸いであり喜びです。

 

 そのように今朝のピリピ書46節を読んで参りますとき、はじめて私たちの心に今朝の御言葉が素直に受け入れられるのではないでしょうか。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。この御言葉の本当の意味は「あなたが思い煩う必要のないほどに、それほど確かに主イエス・キリストが、あなたの人生のナビゲーター、すなわち「主」となっていて下さるのだ」ということです。だからこそ「何事も思い煩ってはならない」と告げられていることは道徳の教えや人生教訓ではなく、すぐに祈りの生活、礼拝の生活への招きが告げられているのです。「事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」とあることです。この「事ごとに」というのは文字どおり「人生の全ての局面において」という意味です。

 

 私たち葉山教会の長老会での洗礼志願者試問会のとき、洗礼試問を受けた洗礼志願者に対して必ず、具体的な信仰生活・教会生活の勧めの言葉が語られます。その中に「生活上の全てのことを牧師に相談すること」というのがあります。私は25年前にこの葉山教会に来て、はじめてこの言葉に接したとき、いささか驚いた、というより慌ててしまいました。長老会で申した記憶があります。「ちょっと待って。生活上の全てのことを牧師に相談すること、というのは、少し言い過ぎではないのか?」。そのとき長老の一人が、たしか石塚弘志さんであったと思いますが、見事な答えを返してくれました。「先生、それは今日の夕食のおかずを何にしましょうか?というようなことを牧師に相談しなさいという意味ではありません。そうでなくて、思い煩いを感じる生活上の全てのことを、まず牧師先生に相談しなさいという意味です」。

 

 私はそれを聞いて心の底から納得し、同時に葉山教会が歩んできた信仰生活の道を思って感動を覚えたことでした。そして同時に、もう一つのことを思いました。それはこの勧めの言葉の中にはたしかに「生活上の全てのことを牧師に相談すること」とあるけれども、それは煎じ詰めるなら「生活上の全てのことを主イエス・キリストに相談すること」になるのではないか。それ以来、私は長老会と共に、この勧告の言葉をとても大切にするようになりました。まさにそこにこそ、私たち主の御身体なる教会に連なって歩む者たちの本当の幸いがあると思うのです。

 

 それこそ「生活上の全てのことを、主イエス・キリストに相談しつつ歩む者たちの幸いと喜び」です。主イエス・キリストが人生のナビゲーターであられることの幸いと喜びです。このかたに私たちの「生活上の全てのことを…相談する」ことがまさに今朝のピリピ書46節、特にその後半部分なのではないでしょうか。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。繰り返して申します。私たちは思い煩い無くして人生を歩みえない者たちです。しかしその私たちに、主イエス・キリストが唯一永遠のナビゲーターとなって下さるとき、私たちはもはや「思い煩う」必要がないほどに主の御手の内を、主に導かれて歩む僕とされてゆくのです。

 

 だからこそ、私たちの新しい生活のスタイルとして「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」と告げられているのです。この「事ごとに」とは文字どおり「生活上の全てのこと」という意味であり、人生の旅路の全ての局面において、私たちは「感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げる」幸いと喜びに生きる僕たちとされているのです。先日19()は中田寿子さんの葬儀がここで行われました。そこでもお話したことですが、中田さんは病床にあっても、地上の人生の最後まで、このピリピ書46節の幸いと喜びに生きた姉妹であったことを思うのです。まことに中田寿子さんは「汝の重荷を主に委ねよ」の幸いに生きた人でした。

 

 改めて、私たちの心を46節に留めたく思います。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」。ここにこそ、私たち全ての者たちがいま、主にありて招かれている、新しい信仰の人生、教会生活の幸いと喜びがあります。そして主は、私たちの人生の全体を、死を超えてまでも、正しき道へと導いて下さるのです。私たちの思い煩いをこのかたが担い取って下さり、私たちを必ず永遠の御国へと導いて下さるのです。「汝の重荷をエホバに委ねよ、さらば汝をささえたまわん」。祈りましょう。