説    教       詩篇119151節    ピリピ書45

               「近きにいます神」 ピリピ書講解(34

               2019・09・15(説教19371820)

 

 「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。これが今朝、私たち全ての者に告げ知らされた主イエス・キリストの福音です。ピリピ書45節の御言葉です。まずここで使徒パウロは「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」と語っています。この「みんなの人に示しなさい」の「示しなさい」という言葉をギリシヤ語の原文で見ますと、優れた知恵や知識をあらわす「グノーシス」という言葉が用いられています。つまりここを敢えて直訳的に意訳するなら「あなたがたの寛容をこそ、ピリピの教会に連なる全ての人たちが共有する“優れた知恵、優れた知識”としなさい」という意味になるのです。

 

「あなたがたの寛容をこそ、ピリピの教会に連なる全ての人たちが共有する“優れた知恵”としなさい」。これが今朝の45節が告げている御言葉の内容であると言えるでしょう。さて、パウロはこのピリピ人への手紙を、遠く数百キロも離れたローマの獄中で書きました。しかしこの囚われの境遇や距離も、神の言葉を阻むことはできませ。否むしろ、ピリピの教会からエパフラスやエパフロデトなどの青年信徒がパウロのもとに遣わされ、現在のピリピの教会が抱えている様々な問題点や苦しみや祈りの課題について報告したとき、まさにこのピリピ人への手紙が、それらの具体的な問題に対するパウロ牧師からの“牧会的指導”として書き記されたのです。そしてエパフラスの手によってこの手紙はピリピの教会にもたらされ、おそらくエパフラスは日曜日の礼拝においてこの手紙を説教壇の上から、それこそ「みんなの人に」宣べ伝えたのでした。

 

エパフラスはそのとき「今日はパウロ先生の手紙を説教として代読します」と語ったのではないでしょうか。そしてローマの獄中にあるパウロ牧師の説教が、青年エパフラスによって説教壇から読まれるや否や、その言葉の一つひとつはまさにパウロ牧師を通して、大牧者なる主イエス・キリストご自身が「今ここで語りたもう福音の言葉」として人々の心に響いたのです。そのようなキリストの現臨をさし示す説教として今朝の45節に至りました。「あなたがたの寛容をこそ、ピリピの教会に連なる全ての人たちが共有する“優れた知恵、優れた知識”としなさい」このパウロ牧師の言葉を聴くや否や、ピリピの教会の人々には深い悔改めがもたらされたのではなかったでしょうか。

 

 それは何であったかと申しますと、当時のピリピの教会には律法主義とグノーシス主義という2つの深刻な問題がありました。そのうちグノーシス主義の問題がより深刻でした。それは「グノーシス主義者」と呼ばれる人々が日曜日の説教壇を独占するようなことをして、ピリピの教会の人々に「我々の救いはイエス・キリストにあるのではなく、真のグノーシス(優れた知恵・優れた知識)を得ることによって救われるのだ」と宣べ伝えていたことです。誕生して間もないピリピの教会はこのグノーシス主義者たちの説教によって大混乱に陥りました。「救いはキリストにあるのではなく、グノーシス(優れた知恵・優れた知識)にあるのだ」ということは、要するに「救いを与えるものは神ではなく人間なのだ」という誤った教えです。この間違った教えに対してパウロは明確に語っているのです。「あなたがたの寛容をこそ、ピリピの教会に連なる全ての人たちが共有する“優れた知恵、優れた知識”としなさい」。

 

 つまり、パウロはこのように語っているのです。本当のグノーシス(優れた知恵・優れた知識)とは、人間を誇らせ、自惚れさせて「救いを与えるものは神ではなく人間なのだ」と言わしめるようなものではない。そうではなく「寛容」こそが私たちキリスト者の持つべき本当のグノーシス(優れた知恵・優れた知識)なのだ。そこでこそ大切なことはこの「寛容」という言葉です。私たちは「寛容」と聞きますと、それは広い穏やかな心、隔ての無い心、他者と強調する精神のことだと考えています。それはもちろん間違いではありません。しかしこの45節で言う「寛容」とはむしろ「堅く立って揺るがないこと」という意味なのです。英語の“torelance”もそのような意味です。逆に言うなら「堅く立って揺るがないからこそ、広く穏やかな心、隔ての無い心に生きることができる」そういう意味の言葉なのです。中心は「堅く立って揺るがない」ことにあるのです。では、なにに堅く立つのでしょうか?。それは主イエス・キリストの恵みにです。「主イエス・キリストの恵みに堅く立つゆえにこそ、あらゆる人に対して、広く穏やかな心、隔ての無い心に生きることができる」それが今朝の45節の御言葉の意味なのです。

 

 だからこそ、この45節がピリピの教会の礼拝において説教として宣べ伝えられたとき、聴く人々の心に深い悔改めを喚起したのでした。ああ、私は、我々は、いままでどんなに恐ろしい間違いを絶対化していたことか。自分の中にこそ優れた知恵があり、優れた知識があると思って自惚れ、他の人たちを審いていた罪を、いまこそ主にありて赦して戴かねばならない。主よこの私を、私たち全ての者を、本当のグノーシス(主イエス・キリストの恵みに堅く立って揺るがない信仰生活)へと導いて下さい。本当の「寛容」へと導いて下さい。ピリピ教会に集う全ての人にこの悔改めが起こったかどうかはわかりません。この手紙を説教として聴いた人々の中で、ごく一部の人たちだけが悔改めに導かれたのかもしれない。しかしその悔改めた人々の祈りと生活が、やがてピリピの教会全体を、それこそ「主に在る喜びの共同体」として強め整えていったことは確かなのではないでしょうか。

 

 まさにその「主に在る喜びの共同体」として強められ、整えられていったピリピの教会の聖徒の交わりの中で、ローマのクレメンスのような青年も育てられていったのです。その悔改めの喜びと幸いが、まさしく主に在る真の「寛容」が、キリストの恵みに堅く立って揺るがない信仰生活が、やがてアレキサンドリア教理学校を生み出し、ニカイア信条の制定・告白へと繋がってゆくことになったのです。その教理の大きな流れの中に、私たちのこの葉山教会も生み出され、このピスガ台に建てられていることを思うのです。そのような意味において今朝のこの45節はまさに「生命の言葉」「主の教会を建てる言葉」なのです。

 

 さて、今まで語ってきた事柄との関連の中で、今朝の45節には大切な結語(締め括り)があるのです。それは「主は近い」という福音の宣言です。今朝の説教題も「近きにいます神」としました。併せて拝読した詩編119151節にもこうございました「しかし主よ、あなたは近くいらせられます。あなたのもろもろの戒めはまことです」。実はこのことこそ、グノーシス主義の誤りに陥りつつあったピリピの教会が見失っていた恵みでした。「救いは神にではなく人間にある」とする誤った教えは、逆に言うならば神を(十字架のキリストを)現実の私たちの生活から遠ざけてしまうことです。「神は(十字架のキリストは)この現実の私の救い主ではない」と言い切ってしまうことです。だから「人間の優れた知恵」にこそ救いがあるという結論になるのです。それは不信仰の罪です。私たちも、ピリピの教会と共に、この不信仰の罪を逃れえないのではないでしょうか。

 

 マタイ福音書1422節以下に、主イエスを陸に残したまま、弟子たちだけでガリラヤの海に船出した時の様子が記されています。真夜中に逆風が吹き荒れ、老練な船乗りであったはずの弟子たちでさえその波風に怖れを抱きました。その弟子たちの船に主イエスは、海の上を歩いて近づいてきて下さいました。最初は「幽霊だ」と言って騒いでいた弟子たちでしたが、それが主イエスのお姿だとわかりますと、ペテロが申しました「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。しかしペテロは波風を見て恐ろしくなり、溺て水の中に沈みそうになりました。そのペテロの手を主イエスはしっかりと握って下さり、そして言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。

 

 このマタイ伝14章の御言葉は、今朝のこの45節と呼応するものです。私たちもまた人生の試練や苦しみや悲しみという荒波の中で、その波風だけを見て怖れを抱き、近づいてきて下さる救い主イエス・キリストの御姿を見失う者たちなのではないでしょうか。その私たちに主イエスは御声をかけて下さいます「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。この「信仰の薄い者」というのは「信仰が多岐に分裂している」という意味の不思議な言葉です。主イエスはもちろん信じている、しかしいざここが人生の大勝負という大切なところで、私たちは主イエスを「当てにならない幽霊」だと決めつけ、自分を取り囲む波風を見て怖じ惑ってしまうのです。まさに「信仰が多岐に分裂している」現代人の姿と悲劇がそこにあります。信じるものが多岐に及んでいて、しかもどこにも「救い」を見出すことができない現代人の悲劇です。こうした信仰における器用貧乏の罪を、私たちもまた犯しているのではないでしょうか。

 

 まさにそのような私たちに、今朝の45節ははっきりと告げています。「主は近い」と!。主はあなたのかたわらにいまし、あなたといつも共にいて下さる救い主であると!。それは同時に、主が再び世に来られて全世界に救いを完成して下さる日が来る、その「主の日」は「近い」という宣言でもあります。ユダヤ教の礼拝音楽にコル・ニドライ(主の日)という有名な曲があります。マックス・ブルッフがヴァイオリン曲に編曲していますが、この中でも「主は近い」と幾度も語り告げられます。ただし、私たちはユダヤ教徒ではなく、キリスト者として、主の御身体なる教会に連なる僕たちとして、その「主の日」が単に将来のことではなく、いまここにおける私たちの救いを保証する恵みの出来事であることを知らされているのではないでしょうか。

 

 それは、どういうことでしょうか?。端的に申します。「主は近い」というのは、私たちが自分の心の実感として語る事柄ではないのです。そうではなく、まさに全世界の唯一まことの救い主であられる主イエス・キリストが、測り知れない恵みの御力と主権をもって、いまここに生きる私たち全ての者たちに告げていて下さる福音の宣言なのです。つまり、この45節の根拠は、私たちの心にあるのではなく、事実としていま私たちの現実の救い主であられる十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるのです。言い換えるなら「主は近い」とは十字架と復活の主イエス・キリストが、その救いの恵みをもって一方的に告げていて下さる私たち全ての者の救いの出来事なのです。

 

 さきほどのマタイ伝14章においても、主はペテロがまさに水に沈まんとしたそのとき、彼の手をしっかりと捕えて、ペテロを水の中から救い出して下さったのではないでしょうか。それと同じです。変転極まりなき歴史の中で、複雑な人生の現実のただ中で、苦しみや悲しみの海に沈みそうになる私たちの手を、主イエス・キリストただお一人が、私たちの力や可能性を超えたところで、恵みの御力において、しっかりと捕えて下さる。そしてご自身と共に歩む幸いを、私たち全ての者に与えて下さるのです。マタイ伝1431節「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』。」。

 

 ここにおいてこそ、私たちに求められているものは主イエス・キリストのみを「わが主、救い主」と信ずる信仰です。その信仰告白に堅く立って揺るがぬ主の教会の枝として生きることです。そのようになってこそ私たちは本当の「寛容」に生きる者とされるのです。「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。「あなたがたの寛容をこそ、ピリピの教会に連なる全ての人たちが共有する“優れた知恵、優れた知識”としなさい。なぜなら“主は近い”からだ」。だから大切なことは、イエス・キリストを唯一永遠の主と告白する主の御身体なる教会に連なり、まさに「主イエスに手を捕えて戴いた者」として生きて行くことです。そこに私たちキリスト者の「寛容」の根拠があります。私たちは、私たちこそは、堅く立って揺るがぬ者とされているのです。なによりも、私たちがその上に堅く立つ千歳の岩にいましたもう主イエス・キリストは、昨日も、今日も、永遠までも、変わりたもうことはないのです。祈りましょう。