説    教       イザヤ書3510節    ピリピ書44

               「主に在る喜び」 ピリピ書講解(33

               2019・09・08(説教19361819)

 

 「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。これが今朝、私たちに与えられたピリピ書44節の御言葉です。これはピリピ書の中でも特によく知られている御言葉の一つでありましょう。なによりも「喜びの手紙」と呼ばれるピリピ書の中で「いつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と告げられていることは、私たちの心を捕らえてやみません。まさにピリピ書の中でも最も「ピリピ書らしい御言葉」であると言えるのではないでしょうか。

 

 しかしながら、では私たちがピリピ書の中でこの44節が「好きかどうか」と訊かれるならば、少し事情は変わってくると思うのです。よく「愛唱聖句」というものがありますが、今朝のこの44節を愛唱聖句にしている人は意外に少ないのではないでしょうか。もしかしたら、ほとんどいないのではないかと思われるのです。それはなぜなのでしょうか?。

 

 まず考えられることは、今朝のこの御言葉が「いつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と、喜ぶことを強要している、強制している、無理強いしているように読めるからです。「喜ぶ」というのは、私たち人間の感情の中でもいちばん自発的なものであるはずだ。人に強要され強制されて「喜びなさい」と言われる筋合いのものではない。実は私たちはかなり確信的にそのように思っています。だからこそ今朝の44節に違和感を感じてしまうのです。そうした違和感の中で「これは聖書の言葉(パウロの言葉)だからこのように言えるのだ」と、心のどこかで割り切って読むことをしているのではないでしょうか。「自分としては違和感を感じるけれど、聖書はとにかくこういうことを語っているのだ」という読みかたです。

 

 それならば、私たちはどうか気を付けたいと思うのです。そして改めて今朝の44節を虚心坦懐に受け止めて参りたいのです。そのとき、私たちは今更の如くひとつの大切な言葉に気が付くのではないでしょうか。それは「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と、ここに「主にあって」と明確に語られていることです。そしてこの「主にあって」とは元々のギリシヤ語で申しますなら「主イエス・キリストに結ばれて」「主イエス・キリストに贖われて」という意味の言葉です。ギリシヤ語では「エン・クリストゥス」と言います。

 

 つまり、今朝の44節はこのような意味になります。「あなたがたは、主イエス・キリストに結ばれ、主イエス・キリストに贖われた者たちである。そのような私たちは、いつも主にあって喜ぶことができる。繰り返して言うが、主にあって喜ぶ者とされているのだ」。ここで明らかになることは、今朝のこの御言葉(喜び)の主語は、実は私たち自身ではなく、贖い主であられる主イエス・キリストであるということです。それを明確に示すものこそ「主にあって」という言葉なのです。主イエス・キリストの十字架による罪の贖いの恵みが、私たちの全ての違和感を打ち砕き、全ての思惑に先行しているのです。そしてさらに大切なことは、ここには例外とされている人は一人もいないという事実です。「主にあっていつも喜びなさい」と告げられているこの喜びから疎外されている人は一人もいないのです。なぜでしょうか?。それは、主イエス・キリストは全ての人の罪の贖いと赦しのために十字架におかかりになられた唯一まことの永遠の救い主であられるからです。

 

 ですから、今朝の44節が告げている「喜び」は、主イエス・キリストの十字架のみが根拠になっている、主の十字架のみが理由になっている、そのような「喜び」にほかなりません。ジェイムズ・モファットというアメリカの聖書学者は「この喜びは私たち人間の中にいっさいの根拠を持たない」と語っています。これはたいへんな言葉でして、モファットは逆に言うならこういうことを申しているのです。「この喜びは私たちが喜びえない時にこそ、主がご自身の十字架を唯一の根拠として与えて下さる喜びである」。それならば、この「喜びなさい」という勧めを、私たちは道徳の教え、生活上の教訓として聴くのではない。そうではなく、ただ十字架の主イエス・キリストの福音として聴くのです。それが「主にあって」という言葉です。

 

 そもそも、私たち自身の生活を顧みて「いつも喜んで」いることがいかに不可能なことか、誰の目にも明らかではないでしょうか。むしろ、私たちの日常生活の中で、喜びと悲しみ、嬉しさと苦労、幸いと不幸、明るい気持ちと沈んだ気持ち、それらを両天秤にかけるならば、悲しみ、苦労、不幸、沈んだ気持ち、のほうに傾くと言えるのではないでしょうか。あるいはこうも言えます。たとえいまは喜んでいても、その喜びは決して長続きしません。今日は喜んでいる人が、その翌日には悲嘆のどん底に沈んでいる、そういうことが日常的にあるのが私たちの人生なのではないでしょうか。そのように考えますとき、なおさら「主にあって」という言葉の重さに改めて気づかされる私たちなのではないでしょうか。

 

 いままでこの説教壇から幾度となくお話してきたある人の生涯を、改めてここにご紹介したいと思います。私が葉山教会に赴任する前、25年前まで仕えておりました東京の千歳教会の教会員にYさんという老婦人がおられました。この人は18歳の時に原因不明の病気で視力をほとんど失い、失明同然の状態になったかたです。藁にも縋る思いで、埼玉県は秩父にある、眼病に霊験あらたかと言われる寺に入りました。そこでお経を読んだり、水垢離を取ったり、座禅をしたり、いろいろな修行に励んだのですが、視力は回復するどころか、ますます悪くなるばかりでした。

 

ついに、このYさんは自殺しようと決意するのです。自殺を決意した日は日曜日でした。その日曜日の朝「今日は私の命日」と思いながら僅かばかりの荷物の整理をしていたそうです。その時、遠くのほうから讃美歌の歌声が聴こえてきた。「神は愛なり」と歌う歌声が聴こえてきた。それは近くの教会の礼拝の様子が聴こえてきたのでした。その歌声を聴いた瞬間、このYさんは思ったそうです。「もしかしたら、私はまだ、本当の神様を知らないのかもしれない」。そう思うと矢も楯もたまらず外に飛び出し、歌声を頼りにその教会を訪ねて、生れて初めてキリスト教の礼拝に出席したのでした。まさにその日こそYさんの人生が「主にあって」変えられた記念の日、主にある甦りの日になったのでした。

 

 まさにその日から、天の御国に召されるまでの全生涯を、このYさんは忠実なキリストの僕として祝福された信仰の生涯を全うしたのです。彼女に出会った人が異口同音に言うことがありました。「あなたはどうして、いつもそんなに嬉しそうなの?」するとYさんはいつもこのように答えていました。「それはイエス様が私の罪を贖い、私を御国の民として下さったからよ。あなたも教会に来てイエス様のことを知れば、きっと毎日が嬉しくてたまらなくなるわよ」。そのようにしてYさんに誘われて教会に来た人たちは100人以上に及びました。そして約30人もの人たちが洗礼を受けるまでに至ったのでした。まさに「主に在って喜ぶ」その喜びのさまが、一人の女性の生涯をして福音宣教の器となし、それを主は豊かに用いて下さったのです。

 

 私はこのYさんの飾らない言葉「あなたも教会に来てイエス様のことを知れば、きっと毎日が嬉しくてたまらなくなるわよ」ここにこそ私たちの伝道の原点があるといつも思わされています。私たちの測り知れぬ罪と死を、神の独子イエス・キリストが十字架におかかりになって贖い、私たちの罪の値を全て支払って下さって、私たちに真の自由と新しい生命を与えて下さったのです。キェルケゴールという人はこの十字架の主イエス・キリストについて「彼は我らに永遠の平安と喜びを与えんがために、ご自身の身からはいっさいの平安と喜びを奪われし人なり」と語っています。まさに十字架の主イエス・キリストこそ、私たちに永遠の平安と喜びを与えるために、ご自身のいっさいを十字架において献げ切って下さった救い主なのです。この救いの出来事、十字架による罪の贖いの出来事の上に、ただそれのみを唯一の根拠として、今朝の44節は告げられているのです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。

 

 十字架の主イエス・キリストにのみ、奪われることも、失われることも、古びることもない、本当の「喜び」があるのです。その「喜び」は、私たちが人生の中で喜びから最も遠いところを項垂れ打ちひしがれて歩む、その時にさえもなお、私たちの全存在、全人生、全生活を支え、導いてやまない「喜び」です。言い変えるならば、その唯一の「喜び」の根拠は、十字架の主イエス・キリストが、いつも、いかなる時も、変わりなく私たちと共にいて下さる恵みです。「私は決してあなたを捨てず、あなたを片時も離れない」と言って下さる、断言して下さる、約束して下さる、十字架の主イエス・キリストの恵みです。まさにその「主に在る喜び」に支えられ、その「主に在る喜び」に生かされて、私たちの人生もまた、主がいつも共に歩んで下さる、かけがえのない祝福の人生とされているのではないでしょうか。

 

 ピリピ書が「喜びの手紙」と呼ばれていることは、実は裏を返すならば、かくも繰返し「主に在る喜び」を語らねばならなかったほどに、当時のピリピの教会にはその喜びが乏しかったことを示しています。もしそうならば、私たちは想像できます。使徒パウロから「喜びなさい、繰り返して言うが、喜びなさい」と聴くたびに、ピリピの教会の人々には違和感があったに違いない。それこそ身の縮む思いでこのパウロの言葉を受け取ったかもしれないのです。その状況は、ここに集う私たちも同様であるかもしれない。自信をもって、胸を張って「はい、私は主に在る喜びに満たされています」と語りえない私たちであるかもしれないのです。

 

 しかし、だからこそ、それだからこそ、聖書は、パウロは「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と告げています。まさに大切なことは「主にあって」という一点です。この一点に、この十字架の主イエス・キリストに、あなたの全存在、全人生を、いま投げ掛ける者になりなさい。本当の平安も喜びは、あなた自身の中にあるのではない。あなたの努力目標なのでもない。そうではなく、あなたを真に生かしめる本当の平安と喜びは、それはただ、あなたのために十字架にかかって下さった、主イエス・キリストにあるのだ。

 

 それならば、今朝の御言葉のこの「喜びなさい」とはまさに「主イエス・キリストを信ずる者として歩みなさい」という音信なのです。あなたも、あなたも、主イエス・キリストを信ずる者として歩みなさい。そうすれば、あなたの人生の全体が、決して失われることのない本当の「喜び」に満たされたものになる。なぜならば、主は決してあなたから離れたもうことはない、永遠の救い主であられるからだ。私たちはそのように今朝の44節から告げられているのです。祈りましょう。