説    教       詩篇467節     ピリピ書43

               「主の教会の本質」 ピリピ書講解(32

               2019・09・01(説教19351818)

 

 今朝のピリピ書43節の御言葉をもう一度、口語でお読みいたしましょう。「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」。先週の42節と同様に、ここにはまずユウオデヤとスントケという2人の女性に対する、使徒パウロの牧会的な愛を持った配慮が記されています。

 

当時のピリピの教会において、ユウオデヤとスントケという2人の女性が、なにが具体的な原因であったかはわかりませんが、対立し反目しあっていました。この問題に対してパウロは、どちらか片方の女性を譴責したり擁護したりするのではなく、双方の奉仕が共に生かされ、共に主の教会を建ててゆく方向で問題を解決しようとしました。ですから今朝の3節を見ますと「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい」とあるのです。この「真実な協力者」とは複数形で、これはピリピの教会に連なる全ての教会員のことをさしています。つまりパウロは「ユウオデヤとスントケの対立の問題は、ピリピの教会員全体に与えられた主に在る課題である」と語っているのです。

 

それならば、この課題を教会員全員が共有し、祈り、克服することにおいてこそ、ピリピの教会はよりいっそう強められ、主の御業に相応しい群れとされ、神の栄光を現す教会へと成長してゆくことができるのです。このことは教会の中にしばしば起こりうる人間的な対立や不和の問題に対する、私たちの正しい対処の仕方について教えています。それは私たち主の教会に連なる者全員が「真実な協力者」になることです。そしこの「真実な協力者」になるとは、教会の唯一のかしらにいましたもう主イエス・キリストの御心を世に現す器になることです。まさにキリスト者の生活の具体的な在りかたがここに示されているのです。

 

 そこで、今朝はこの「真実な協力者」という大切な言葉との関連の中で「クレメンス」という男性の名前が記されていることに注目したいと思います。つまり3節に「彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」とあることです。ここには「いのちの書」という印象的な言葉も出て参ります。19世紀ドイツの教会史家アドルフ・フォン・ハルナックは「教理史教程」(Lehrbuch der Dodmengeschichte)という本の中で「おそらくこのクレメンスはローマのクレメンスと同一人物であったと思われる」と語っています。今日の説教はこのハルナックの推測を前提としてお話をいたします。

 

ハルナックという人は憶測や独断で物事を語る人ではなく、必ず綿密な歴史的資料の裏付けに基づいて語る人ですから、彼が今朝のこの「クレメンス」をローマのクレメンスと同一人物であると推測していることには確かな根拠があるのです。その第一に挙げられる根拠こそ、今朝の43節に「いのちの書に名を書きとめられているクレメンス」とあることです。そこで問題はこの「いのちの書」とは何であるかということです。実はこれと同じ言葉は同じ新約聖書のヨハネ黙示録35節ならびに2012節にも出てきます。

 

まず黙示録35節にはこうございます。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」。同様に黙示録2012節にはこのように記されています。「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった」。続く2015節にももう一度「いのちの書」が出てきます。

 

 この黙示録の3つの箇所からわかりますことは、この「いのちの書」というのは、主イエス・キリストによる救いを与えられた者、贖いと救いを全うせられた者、それゆえに天の御国に席を備えられた者、そうした者たちのリストのことを意味しているのです。もっとわかりやすく申しますと「教会員原簿」のことです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会の一員とされた者たちは「いのちの書」である「教会員原簿」に名前が書き記された者たちなのです。そうすると、これはここに集う私たちのことでもある、ということがわかるのではないでしょうか。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは熱心な祈りの人でした。ある時ルターはこのように友人メランヒトンに語っています。「私は今日、2時間は祈らねばならなかったほど忙しかった」。私たちはえてして、これとは正反対の生きかたをしてしまうのではないでしょうか。この世の仕事が忙しければ忙しいほど、祈る時間が短くなってしまうのが私たちなのではないか。ルターは逆でした。忙しければ忙しいほど、主なる神に拠り頼む「祈り」の時間は長くなったのです。そのような日々の中で、ルターはいつも机の前に一枚の紙きれを貼っていました。その紙切れにはこう書いてありました。「私は洗礼を受けている。私はいかなる時にも主のものである」。

 

 ここに、ルターの熱心な祈りの生活の根拠があったのです。「私は洗礼を受けている。私はいかなる時にも主のものである」。私たちはどうでしょうか?。自分が洗礼の恵みを与えられていることを、これほどの大きな慰めと感謝と喜びとして、いつも思い起こしているでしょうか?。なぜこのようなことを話したかと言いますと、私はここにこそ「いのちの書」に名が書き記された者たち、すなわち私たち主の御身体なる教会の枝とされた者たちの、揺るがぬ喜びと確信があるからだと思うのです。それはキリストの内に自分を見出す者の喜びと確信です。キリストが永遠に主にいましたまい、贖い主でいましたもう事実の感謝に生きる者たちの確信です。

 

 そのように読んで参りますと、今朝のこの3節の「いのちの書」という言葉は、私たちもその名を書き記されている「教会員原簿」のことであるとわかるのではないでしょうか。葉山教会の教会員原簿は私の牧師室に保管されています。私はそれを手に取るたびにひとつのことを思います。それは、私がいま手にしている「教会員原簿」というのは実は本体は天国にあるのであって、私が手にしているのは天国にある本体のファクシミリ(写本)なのだということです。ですから「いのちの書」とは実は天国の国籍原簿のことでもあるのです。天の御国に永遠の「席」を備えられた者たちのリストです。これ以上の喜ばしいリストがどこにあるでしょうか。

 

 まさにこの「いのちの書」に、ピリピの全教会員と共に名前を書き記されていたクレメンス、そしてユウオデヤとスントケ、そしてここに集う私たち、ここに確かな揺るがぬ絆があります。その絆こそ「主イエス・キリストがあなたの永遠の贖い主にいましたもう」という事実です。この主に在る絆を与えられた幸いを思い起こしつつ、使徒パウロはそこにローマのクレメンスの名を書き留めて、彼のことを思い起しなさいと愛するピリピの教会員たちに勧めているわけです。

 

 ローマのクレメンスはローマン・カトリック教会の伝承によれば、使徒ペテロの後継者として第二代目のローマ教皇になった人とされています。しかしローマ教皇制度が教会史の中で確立するのはそれより数百年も後のことですから、この伝承は歴史的根拠のない空物語にすぎません。

 

それよりも、ローマのクレメンスについて確かなことを私たちは知っています。それは彼が世界最初の神学校であるアレクサンドリア教理学校の創立者であり、初代校長になった人物であるという事実です。アレクサンドリア教理学校の初代校長はローマのクレメンス、二代目は盲目の神学者ディデュモス、三代目はニカイア信条で有名なアタナシウス、四代目は殉教者オリゲネスで、このオリゲネスの時代にアレクサンドリア教理学校は迫害のために廃校となりました。

 

 しかしこのアレクサンドリア教理学校の卒業生たちが、ニカイア信条にあらわされた正統的教理に堅く立つ主の僕たちとして、古代教会の複雑な歴史を正しく牽引することになるのです。そのようなアレクサンドリア教理学校の基礎を作った人こそ今朝の43節に記された「クレメンス」であるわけでして、私たちはここに、ピリピの教会が真の神の僕たちを世に送り出した、そのような生きたキリストの御身体として立てられ、成長していった事実を知らしめられ、感謝と讃美に満たされるのではないでしょうか。

 

 そして、私たち葉山教会に連なる者たちも、そのような「いのちの書」に名を書き記された僕たちなのです。クレメンスをして真の神の僕たる生涯を歩ましめた神は、ここに集う私たちをも同じ恵みの絆において堅く結び、歩ませて下さる「歴史の救済主なる神」にいましたもうのです。そしてそこに、主の教会の本質があるのです。主の教会の本質は「いのちの書」に現れているのです。その「いのちの書」の本体は天国にあるのです。つまり、私たちの葉山教会は天の御国の栄光の教会の、歴史と地上におけるブランチ(枝)なのです。だから洗礼を受けることは全てにまさる幸いなのです。そこに確かな永遠の救いの徴があるのです。教会は、キリストによりて贖われ、救われた僕たちの歴史における共同体であり、天に国籍ある者たちの礼拝者の群れです。だから教会の本質は目に見える事柄だけではないのです。むしろ目に見えない永遠の絆こそが大切なのです。

 

 この恵みをいま心新たに覚えつつ、もういちど今朝の43節をお読みして終わりましょう。「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」。まさに私たちをも、主は同じ祝福と幸いの内に、永遠に、堅く支え続けて下さいます。祈りましょう。