説    教       申命記112節    ピリピ書423

               「真実なる協力者」 ピリピ書講解(31

               2019・08・25(説教19341817)

 

 今朝の御言葉であるピリピ書423節を、もういちど口語でお読みしましょう。「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」。

 

 ここには具体的な人物の名前が3つ出てきます。まず「ユウオデヤ」と「スントケ」この2人はピリピの教会の中で主にある奉仕のわざに生きた、いわば信仰生活に熱心な女性たちでした。どちらもギリシヤ的な名前であり、ユウオデヤは「香り」という意味、スントケは「幸運」という意味のギリシヤ語です。

 

そして3人目は「クレメンス」という男性です。ドイツの教会史家ハルナックは彼について「おそらくローマのクレメンスと同一人物であろう」と指摘しています。もしそうであったとすれば、この人は西暦30年頃に生れて101年に世を去った神学者であり、ローマ・カトリック教会において使徒ペテロの後継者である第2代目ローマ教皇として聖人に列せられている人物ということになります。なお「クレメンス」とはラテン語で「寛大な人物」という意味です。

 

 そこで、今朝の御言葉はいきおい、この3人の人物にまつわる「勧めの言葉」であると言うことができるでしょう。パウロ牧師の説教は321節で終わり、41節以下からは礼拝後の「報告」がなされているわけですが、その報告のいちばん最初に、パウロはいま申しました3人の人物の名を挙げて、愛するピリピの教会の人々に対してまことに具体的な勧めを行っているわけです。

 

 そこで、まずユウオデヤとスントケという2人の女性についてです。聖書の中には実にたくさんの女性たちの名前が出てきます。特に新約聖書においては、初代教会の伝道のわざにおいて、どんなに大勢の女性たちが、熱心かつ忠実に主の御業のために働いたか、枚挙に暇がないほどです。女性たちの熱心な働きと奉仕なくして、初代教会の伝道のわざはありえませんでした。執事のような職務はもちろん、使徒や預言者、聖書教師などの奉仕者にも女性たちがいました。彼女たちの働きを見ていると、実に麗しいキリストの身体の姿を見ることができるのです。

 

 事実パウロみずからガラテヤ書の328節以下において、このように語っています。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」。当時のギリシヤ社会においてはユダヤ人とギリシヤ人という人種の差、奴隷と自由人という社会的身分の差、男と女という性別の差は絶対的なものでした。この絶対的な区別をイエス・キリストの福音だけが根底から打ち崩し、私たちに真の自由と平等を与えるのです。それは何に由来するかと言いますと「あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」という福音の告知によるのです。

 

 ということは、逆に申しますなら「あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」という大切な福音の告知を見失うとき、それらの人種的・社会的・性的区別というものが再び「絶対的なもの」として私たちの生活を脅かし、不自由にさせてしまうのではないでしょうか。そのことが現れた具体的な例が、ユウオデヤとスントケという2人の女性にまつわる対立でした。

 

 ユウオデヤもスントケも、ともにピリピの教会の中で素晴らしい奉仕のわざに生きた女性たちです。彼女たちの奉仕のわざは他の誰よりも熱心であり、多くの称賛に値するものでした。しかし「船頭多くして舟山に登る」という諺にありますように、指導的な立場にいる人物が複数おりますと、そこに様々な対立や不一致、意見の相違やいがみ合いなどが起こってくるものなのです。それが人間の弱さです。今日の教会に準えて言いますなら、同じ一つの教会の中に婦人会の会長が2人いるようなものだと考えて下さい。2人とも甲乙つけがたい素晴らしい奉仕者です。指導力もあり人望もあります。しかしそれだけに、この2人の間には確執が絶えず、事あるごとに対立し、互いに批判し合い、相互の溝は深まっていったのです。

 

 このユウオデヤとスントケの対立は、やがてこの2人に付く、と申しますより、この2人のどちらかを祭り上げる2つの女性たちのグループを生むことになりました。要するにピリピの教会の中に「ユウオデヤ派」と「スントケ派」という2つの婦人会が作られていったわけです。どちらのグループも奉仕のわざの熱心においては引けを取りませんでした。ただ「キリストにおける一致」だけが無かったのです。要するに、いつの間にか人間中心のグループ、キリスト不在の婦人会になっていったのです。

 

 そこで、このような人間どうしの分裂と不一致は、悪魔の(罪の)大好物なのです。悪魔は私たちが神の御支配を見失い、キリストの恵みから離れ、人間中心の群れになろうとするその瞬間を絶対に見逃しません。むしろ奉仕のわざが熱心であり、動機が純粋であればあるほど、それがキリストの御手から離れるとき、虎視眈々と狙う悪魔に働く機会を与えることになってしまうのです。そのような深刻な問題がピリピの教会の婦人たちの中に現れてしまった。この問題が遠くローマの獄中にいるパウロの耳に届いたとき、パウロはこの対立を解決するために今朝の423節を書き送ったわけです。「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい」。

 

 ここにパウロは「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい」と書き送っています。この「ついては」というのはユウオデヤとスントケの対立のことをさしています。この深刻な問題について「真実なる協力者よ」「あなたにお願いする」とパウロは言うのです。それでは、この「真実なる協力者」とはいったい誰のことでしょうか?。これこそ実は、ピリピの教会に連なっている全ての教会員のことをさしているのです。元々のギリシヤ語では「ソイ・グネーシア・スンズゲ」“soi gneesia sunzuge”という言葉です。「ソイ」とは「汝ら」という意味「グネーシア」とは「真実な」という意味、そして「スンズゲ」とは「協力者たちよ」という呼びかけの言葉です。ですから今朝のこの42節は直訳するなら「この問題の解決を、汝ら真実なる協力者たちよ、われ汝らに切に願う」という意味になります。繰返し申しますが、この「真実なる協力者たち」とはピリピの教会に連なる全ての教会員のことをさしているのです。

 

 ということは、2000年の時空を超えて、いまこの423節の御言葉は、同じ主の御身体なる葉山教会に連なる、私たち全ての者に対して語り告げられているのではないでしょうか。それこそが「真実なる協力者たちよ」という呼びかけなのではないでしょうか。人間はキリストのみが「主」にいましたもうことを忘れるなら、無限に分裂し対立するほかない存在です。そこに人間の罪が現れています。もし私たちが、いかに熱心な奉仕のわざであれ、そこに唯一の主であられるキリストの御支配を見失うならば、私たちもまたいとも簡単に分裂し、対立し、いがみ合う存在になってしまうのではないでしょうか。

 

だからこそ使徒パウロは、今朝の御言葉は、まさにここに連なる私たち全ての者たちを見据えて宣べ伝えています。「どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」と。

 

 パウロは語るのです。勧めるのです。互いに分裂し、対立して、悪魔に働く機会を与えるあなたがたになってはいけない。そうではなく、どうか主にあって一つ思いになってほしい。あなたがたこそは「真実なる協力者たち」なのだから。だからどうか、分裂し、対立している、他の人々を助け、主にありてひとつにする、そのような奉仕者になってほしい。それこそが主の御旨なのだ。自分の思いや感情に身を任せるのではなく、主の御旨に従い、それを世に現すあなたになってほしい。それこそ「真実なる協力者」になってほしい。この「真実な」とは「キリストの御旨に対して忠実な」という意味です。そして「協力者たち」とは「キリストの御旨のままに忠実に働く奉仕者」という意味です。

 

つまり「真実なる協力者たち」とは「キリストの御旨に対して忠実な者たち、キリストの御旨のままに忠実に働く奉仕者たち」という意味です。まさに教会のかしらなる主は、あなたがた全ての者たちがそのような「真実なる協力者たち」になるように生きて働いておられる。私たちはいま、ピリピの教会に連なる者たちとして、葉山の教会に連なる者たちとして、そのような「真実なる協力者たち」にならせて戴こうではないか。それが423節の勧めの言葉なのです。

 

 3節の終わりにはクレメンスのことが出てきます。パウロはこのように語っています。「彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである」。これはとても大切な福音の真理を私たちに告げている御言葉です。

 

特に「いのちの書」とはいったい何を意味するのか、またはクレメンスなる人物がハルナックの言うように「ローマのクレメンス」と同一人物であると前提したなら、そこからどのようなメッセージを読み取ることができるのか、なお多くのことをこの説教壇から語らなければなりません。ですから今朝の説教はこれで終わりとします。そして改めて、週報の予告とは違うことになりますけれども、来週91日の主日礼拝において、改めて43節を扱うことにいたします。祈りましょう。