説    教      出エジプト記141314節   ピリピ書41

               「主に在りて堅く立て」 ピリピ書講解(30

               2019・08・18(説教19331816)

 

 だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」。これが今朝、私たちに与えられている福音の御言葉です。パウロはこのピリピ書を説教の原稿として書きましたけれども、パウロ牧師の説教は321節で終わり、今朝のこの41節からは、いわば礼拝後の「報告」にあたる部分が続いているわけです。そのようにこの手紙を読みますと、パウロ牧師の「報告」はいかに微に入り細に入り、牧会的な配慮に満ちたものであったかということが、よくわかるのではないでしょうか。

 

 何よりも、私たち一同の心を打ちますのは、この41節においてまずパウロが「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ」とピリピ教会の教会員たちに語りかけていることです。「わたしの愛し慕っている兄弟たち」もちろんこの「兄弟たち」という言葉には男性も女性も含まれています。元々のギリシヤ語では“アデルフォイ”という言葉で、これは当時の教会(初代教会)において教会員を現わすときに用いられた言葉でした。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会員となった人々はみな「兄弟=アデルフォイ」と呼ばれたのです。今日でも教会においては「兄弟姉妹」という呼びかたがよくなされますけれども、その起源はまさにここにあると言うことができるのです。

 

 先週の13()私は瀬戸内海の直島にある小さな教会の礼拝堂において、神学校時代の同級生であり友人であった水野穣牧師の帰天一周年記念礼拝を司式して参りました。台風の影響もなく海も穏やかでよく晴れた暑い日でしたが、水野君の故郷である福島県から大勢の親族の人たちが集まり、それに加えて水野君の家族、藤沢教会の黒田牧師夫妻、直島教会の福田牧師と夏期伝道に来ていた神学生、直島教会の信徒の人、そして私と家内の総勢約30名の記念礼拝でした。

 

 私と水野牧師とのつきあいは40年以上になりますが、私は彼のことを思い起こすたびに、実の兄弟以上の友であったといつも感じます。言葉の綾ではなく、心からの実感として「兄弟」という言葉でしか語りえない「主に在る友」が水野君でした。サムエル記上にダビデとヨナタンの友情の物語がありますが、私はそのような真の友を主の御手から与えられたと感じています。それはとても幸いな、主が与えて下さった「縁(えにし)=絆」です。パウロもまた、その幸いな主によって結ばれた縁=絆を思いつつ、愛するピリピの教会に対して、どんなに大きな感謝と讃美を神に献げていたことでしょうか。

 

 その感謝と讃美が、この41節に明確に現れていると思うのです。ですから「愛し慕っている兄弟たち」というのは「ともに主の贖いの恵みに与かり、ともに主に在りて結ばれ、ともに主の御業のために生きる僕とされた者たち」という意味にほかなりません。どこまでも神中心です。キリストのみが主なのです。繰返して申します。「ともに主の贖いの恵みに与かり、ともに主に在りて結ばれ、ともに主の御業のために生きる僕とされた者たち」です。それこそが「わたしの愛し慕っている兄弟たち」なのです。だからこそ続いて「わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ」と続くのです。この「喜び」また「冠」という言葉もまた「ともに主の贖いの恵みに与かり、ともに主に在りて結ばれ、ともに主の御業のために生きる僕とされた者たち」の幸いをあらわしています。なによりも、主が喜びたもう者になり、主の永遠の御国において主から授かる「冠」を戴く僕とされる幸いです。

 

 そのようにして、今朝の41節はこのように結ばれています。「このように、主にあって堅く立ちなさい」。そこで、まず「このように」とはいったい何をさしているのでしょうか?。ルター訳のドイツ語の聖書を見ますと、今朝の41節はこのように訳されています。「それゆえに、わが愛しかつ慕うところの兄弟たちよ、わが喜びにしてわが冠なる兄弟たちよ、主にありて堅く立て。汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」。つまりルターは1545年のドイツ語訳聖書において「汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」「主にあって堅く立ちなさい」と訳しているわけです。それが「このように」という言葉の内容なのです。

 

そこで、改めてこの41節のギリシヤ語原文を見ますと、最後に「アガペートイ=agapehtoiという言葉が出てくるのです。これは「神の愛」をあらわす「アガペー」から来た言葉で「神に愛されている者たち」という意味です。ルターはこれを「汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」と訳しているわけです。それが口語訳の聖書では「このように」と訳されているわけで、私たちはこれをルターのように「汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」ときちんと読み取らなければなりません。文語訳の聖書では「斯の如く」と訳されています。この「斯の如く」も「汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」という意味です。

 

 そういたしますと、この41節の中心をなすメッセージ「主に在りて堅く立て」は、それはパウロがピリピの教会にただ言い放っている言葉などではないということがわかるのです。そうではなく、はっきりとした根拠があるのです。「ピリピの教会にある主に在る愛する兄弟たちよ、いまあなたがたは“主に在りて堅く立つ”者たちとされているではないか。なぜなら、あなたがたこそは“主に愛されたる者なるがゆえに”」これが今朝の御言葉「主にあって堅く立ちなさい」の意味です。

 

 私たちは実は「主にあって堅く立ちなさい」などと聞きますと、すぐに自分勝手な想像と言いますか、妄想を膨らませてしまうのです。バルトの言葉を借りるなら「聖書を矮小化してしまう」のが私たちなのです。どういうことかと申しますと、私たちは「主にあって堅く立ちなさい」という今朝のこの大切な御言葉を、いつでも自分自身を基準にして矮小化して読んでしまうのではないでしょうか。私たちは思うのです。「うん、これは良い言葉だ。とても良い言葉だ。しかし今のこの私には、この御言葉はそぐわない。なぜなら、私は“主にあって堅く立ちなさい”という言葉に喜んで聞き従う力も気力も乏しいからだ。生活上のいろいろな苦労もある、思い煩いもある、そのような今の私には“主にあって堅く立ちなさい”と言われても、主よそれは無理ですとしか答えられない。この御言葉は今の私にはそぐわない御言葉だ」。

 

 本当にそうなのでしょうか?。本当に今朝の41節は、今の、現実の、あるがままの私たちには「そぐわない=違和感がある」御言葉なのでしょうか?。そこでこそ私たちはしっかりと聴く僕たちでありたいと思うのです。それこそ先ほどの「アガペートイ=神に愛されている者たち」という言葉ではないでしょうか。それこそが、否、ただその恵みの事実のみが「主に在りて堅く立て」という命令形が私たち全ての者の喜びの生活となる唯一の根拠なのではないでしょうか。

 

 先ほど触れました高松・屋島教会におりました私の友人の水野穣牧師。彼が四国教区を代表して直島教会新会堂の建築委員長になると聞いたとき、私は猛烈に反対しました。「おまえなあ、自分が癌患者だって言うことがわかっているのか?。いまのおまえの身体で会堂建築などに携わったら、寿命が2年縮まるぞ。もし2年縮まったらおまえの余生は無くなってしまうんだぞ」と反対したのです。しかしそのように言いながら私は心の中で「こいつは人の言うことなんか聞かないからな」と思っていました。水野君は御言葉に聴き従うことにおいて頑固なのです。人の言うことには容易に聞き従いませんが、神の言われることには無条件に絶対に聴き従うのです。

 

 まさにそのような牧師として水野君は「主に在りて堅く立て」この御言葉を、主なる神からの無上の恵みとして受け止め、聴き従ったのです。だからこそあの事業が完成したのです。抗癌剤治療を受けながら四国教区はもちろん日本中を駆け巡り、ついに直島に小さいけれど美しい礼拝堂を献堂しました。13()はそこで水野牧師の記念礼拝を献げたわけですが、私は直島教会を改めて隅々まで見せて戴きながら、この「主に在りて堅く立ち」つつ神の僕として生き抜いた友のことを思い起し、彼とともに主の御名を讃美したことでした。直島教会礼拝堂のどの隅々にも水野君の祈りがこめられていると思いました。それは「主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を建てる」祈りです。

 

 どうか改めて確認しましょう。私たち自身が強い者だから、清い者だから、正しい者だから、相応しい者だから、だから「主に在りて堅く立つ」者とされるのではありません。その正反対です。私たち自身を見るならば、どこにも強さ、清さ、正しさ、相応しさなどはありません。それどころか、罪の塊のような私たちにすぎません。その私たちがどうして「主に在りて堅く立つ」僕とされるのか、それはただ「汝ら主に愛されたる者なるがゆえに」という恵みのゆえなのです。十字架におかかりになり、私たちの罪の贖いとなって下さった主イエス・キリストの恵みのゆえに、ただその恵みのゆえにのみ、私たちはいまあるがままに「主に在りて堅く立つ」僕らの群れとされているのです。感謝と讃美をもって、礼拝生活を大切にしてゆく私たち一同であり続けましょう。私たちこそいま「主に在りて堅く立つ」者たちとされているのです。祈りましょう。