説    教        ダニエル書1213節   ピリピ書321

               「栄光の身体」 ピリピ書講解(29

               2019・08・11(説教19321815)

 

 「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。これが今朝、私たちに与えられたピリピ書321節の御言葉です。

 

既に私たちが幾度となく学んできたことですが、使徒パウロはこの手紙を説教として書き送りました。当時パウロはピリピから数百キロも離れたローマの獄中にいて、ピリピの教会が多くの困難試練の中にあることを知りました。そこでパウロはローマから愛する弟子エパフロデトの手にこの手紙を、ピリピ人への手紙を持たせて、ピリピの教会へと遣わしたのです。そしてエパフロデトはこの手紙を主日礼拝の説教として、使徒パウロに代わって読み上げました。つまり、このピリピ人への手紙はパウロの説教原稿なのです。

 

そこで、このピリピ書を説教原稿として見たとき、実は今朝の321節で説教そのものは終わっているわけです。どういうことかと申しますと、今朝の321節が説教の最後の言葉で、その後には41節以下に、祈りと勧めと挨拶と祝福の言葉が続いているのです。

 

 これを私たちの葉山教会の礼拝に準えるなら、こういうことになるでしょう。パウロ牧師の説教は321節で終わり。祈祷、讃美歌、献金、主の祈り、頌栄、祝祷と続いて、そして41節以下は礼拝後の言葉となります。祈り、勧め、挨拶、そして祝福と続くのです。つまり、このピリピ人への手紙は明確な説教原稿としての骨組み、さらには礼拝の言葉という特質を持っているわけです。これはパウロの他の手紙にも共通した特徴ですが、特にピリピ書においてはそれが際立っていると言えるでしょう。

 

 そこで、ここからは説教者としての私自身の特別な印象になります。私は牧師として説教の原稿を毎週準備するわけですが、その中でとても難しいといつも感じることは説教の終わりの言葉です。私の説教原稿のコピーをお持ち帰りになっているかたは、説教原稿のいちばん上に8桁の数字があることにお気づきでしょう。今日の説教原稿で申しますなら「19321815」という数字になります。このうち「19」は2019年の略。「32」はこの説教が2019年の32回目の礼拝説教であることを示します。そして「1815」は通算の通し番号です。つまり今日の説教が1815回目の礼拝説教であることを示しています。

 

 このように、礼拝説教だけでも1815回も続けてきているのだから、いいかげん説教には慣れているだろうと、皆さんは思うかもしれません。事実は全く逆です。毎回の説教準備のたびごとに、私は全く新しい思いをもって、御言葉に対する怖れと感謝と讃美をもって、まるで初心者のように説教の準備に当たらせて戴いている、それが心からの本音です。そしてその想いは、使徒パウロも同じではなかったかと思うのです。不遜な言いかたをするわけではなく、心からそう思えるのです。そのパウロの説教に対する心構えが、特別に現れているのが今朝の321節であると思うのです。説教の最後の言葉です。

 

 「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。この言葉はパウロの中から出てきた思想ではありません。言い変えるなら、パウロが「説教の最後に気の利いたことを言おう」と思って作った言葉ではないのです。そうではなく、ここでパウロは主イエス・キリストの恵みに打ちのめされ、御言葉の力に圧倒されているのです。自分自身がまず、御言葉を正しく聴く者として、神から与えられた御言葉をそのままに愛するピリピの教会の人々に語り告げているのです。

 

 ということは、パウロにとって説教の最後の言葉、つまり今朝の321節は「これこそいちばん強調したい福音の奥義」であり「特別に強く訴えたい神の言葉」にほかなりません。いわばこれこそ「パウロの説教の中心」であるとさえ言える言葉なのです。そこで、まず最初に「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって」とあることは大切です。この「彼」とはもちろん十字架と復活の主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって」私たちに永遠の確かな救いを与えて下さいました。その救いは何かと言いますと「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」ことなのです。

 

 それでは、ここで言われている「わたしたちの卑しい身体」とはいったい何でしょうか?。私たち人間は精神は清いが肉体は汚れている、ということなのでしょうか?。そうではありません。そのようなギリシヤ的霊肉二元論は聖書にはありません。そうではなく、この「わたしたちの卑しい身体」とは私たちの存在と生活の全体をあらわす言葉なのです。つまり「生きている時には穢れているが、死んだら清くなるのだ」という教えではなく、生きている現在も、やがて主のみもとに召される時にも、変わることなく私たちは「キリストを着た者」とされているのだと告げられているのです。

 

 そうしますと、今朝の321節の御言葉は、死んだ後の事柄をさしているだけではないのです。まさしく同じ新約聖書のガラテヤ書327節に告げられた救いの恵みがさし示されているのです。「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」。そて同時にローマ書1313節をも心に留めたいと思います。「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。

 

もともと、ピリピの教会の最大の問題は「キリストを信じて洗礼を受けただけでは救われない」という間違った教えを、律法主義者とグノーシス主義者という2つのグループが説教壇の上から語り始めたことでした。いわば間違った説教、福音ではない人間の教えが、礼拝説教として語られていたわけです。そして、そのような説教を毎週聞かされていたピリピの教会の信徒たちは、大きな動揺と混乱を余儀なくされました。誕生してまだ間もなかったピリピの教会は、洗礼による救いの喜びと確信から引き離されて、再び人間的な律法と知恵を求める団体に変化させられつつあったのです。

 

 この、まことに深刻な混乱の出来事の中に、使徒パウロは今朝の321節を決定的な福音の言葉、唯一の救いの言葉として語り告げているわけです。それが「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」なのです。洗礼の恵みから離れてはならない。救いはただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるのだ。キリストの愛と慈しみ、罪の赦しと永遠の生命、この溢れる福音の恵みから片時も離れることのないあなたがたであり続けなさい。そのようにパウロは語り告げているわけです。

 

 なによりも「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」からだ。あなたがたが受けた救いは主なる神ご自身の「万物をご自身に従わせうる力の働き」によるものなのだ。この世界の創造主なる神ご自身が、あなたを救い、あなたを贖い、極みまでも愛して下さる「主」であられるのだ。この神の愛と慈しみと導きの中に、堅く立ち続けるあなたがた一同でありなさい。そのようにパウロは宣べ伝えているのです。

 

 そこで、今朝の御言葉で告げられている「栄光の身体」とは、キリストの御身体のことをさしているのだ、ということがわかるのではないでしょうか。キリストの御身体とは教会のことです。主がご自身の生命を献げて贖い取って下さった、ご自身の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会のことです。2000年前のピリピ教会のことであると同時に、今の私たちのこの葉山教会のことです。そこに救いの連続性があります。御言葉と聖霊によって復活の主が現臨して下さる「キリストの御身体」であるという連続性です。そして同時に、その「キリストの御身体」なる教会に、いま私たちがあるがままに連なる幸いと喜びを与えられているという救いの連続性です。

 

 私たちが洗礼を受けるということは、まさにキリストの「栄光の身体」を着る者とならせて戴くことです。それこそ先ほどのガラテヤ書327節「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」という恵みと幸いに生きることです。それがいま、ピリピ教会の人々と共に、私たちに与えられている救いの連続性なのです。

 

そして「着る」という言葉にも注目して下さい。「着る」というのは実に不思議な言葉です。中身の自分はあるがままで良いのです。あるがままの「卑しい身体」に過ぎなかった私たち、罪に支配されていた存在と生活しかなしえなかった私たち、その私たちが無条件で、ただ「キリストを着る」ことによって救われるのです。それが洗礼を受けるということです。教会生活をするということです。なぜそれが救いなのか、その見事な答えこそが今朝の321節なのです。「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。この最後の「変えて下さるであろう」という言葉は、ギリシヤ語の原文では「変えて下さるに違いない」「必ず変えて下さる」という言葉です。どうしてでしょうか?。キリストはまさにあなたのために、あなたの救いのために、人となられ、十字架におかかり下さった救い主であられるからです。

 

この「○○のために」特に「この私のために」という言葉をラテン語では「プロメ」“pro me”と言います。英語の“for me”ドイツ語の“fuer Mich”と同じ表現です。そこで、改革者ルターはこの「プロメ」という言葉こそが、今朝のピリピ書321節を読み解く大切な鍵であると語りました。どういうことかと申しますと、私たちは誰しも、誰一人として、今朝の御言葉を「自分とは無関係な言葉」として読むことはできないのです。その逆に「まさにいまこの私の救いがここにある」福音の言葉としてこれを読む者とされているのです。なぜか?。キリストはまさにあなたのために、あなたの救いのために、人となられ、十字架におかかり下さった救い主であられるからです。

 

 私たちのために、まさに「あなたのために」十字架にかかって下さった主イエス・キリストこそが、キリストのみが「わたしたちの卑しい身体を、ご自身の栄光の身体と同じかたちに変えて下さる」からです。そればかりではない、主はご自身の全き贖いの恵みにより、いまここに集う私たち全ての者に「ご自身の栄光の身体と同じかたち」を与えて下さった。この「同じかたち」こそ永遠の生命、永遠に主と共にある幸いと喜びです。十字架と復活の主イエス・キリストが、いつ、いかなる時にも、永遠に、私たちと共にいて下さり「万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」のです。まさに「キリストを着た者」として、永遠に主と共にある幸いを与えて下さるのです。祈りましょう。