説    教        創世記281015節   ピリピ書320

               「我等の国籍は天に在り」 ピリピ書講解(28

               2019・08・04(説教19311814)

 

 「我等の国籍は天に在り」これはピリピ書320節にある、ピリピ書の中でも特に印象的な御言葉のひとつです。そこで、まず私たちはこの世の国籍について考えてみたいと思います。私たち人間の存在と生活にとって「国籍」は果たして必然的なもの、本質的なものなのかどうか、その問いは常に付きまとうのではないでしょうか。ここに集うている皆さんの全ては国籍の持主でありましょう。しかし世界的な規模で見るならば、いわゆる「無国籍」の人たちも少なからず存在しているわけです。トルコやシリアに居住しているクルド人の人たち、あるいはミャンマーやタイに居住しているロヒンギャと呼ばれる人たち、こうした人たちにはいわゆる国籍というものはありません。無国籍の人々なのです。

 

 少し前まではパレスチナ自治区の人々も無国籍でした。ラトビアやエストニアなどのバルト三国の人々にも相当数の無国籍の人たちが存在します。個人名で申しますなら、昔わが国のプロ野球にスタルヒンという投手がいました。帝政ロシアの生まれで両親と共に北海道に亡命した人です。スタルヒンは生涯無国籍のままでした。あるいは私たちの記憶に新しいところで申しますなら、2018年にタイの山岳地帯で、雨季の増水によって洞窟に閉じこめられた少年たちの救出劇がありました。あのとき救出された少年たちをワールドカップの試合に招待しようという動きがありました。しかしあの少年たちは全員がロヒンギャで無国籍であったため、パスポートが取得できなかったという出来事がありました。

 

 こうしたことを考えてみますと、人間はこの世の国籍が有ろうと無かろうと、一個の人間であることには変わりはないのですが、いろいろな法制上・手続上の問題から、国籍というものが便宜上必要だという結論になるわけです。しかし、人間の存在と生活にとって、それが本質的かつ不可欠のものか否かという問題になりますと、それは決して「本質的なものではない」と結論せざるをえないのではないでしょうか。

 

そのことを示す代表的な例は、4世紀の教父ヨハネ・クリュソストモスという人の神学思想です。ヨハネ・クリュソストモス(金口ヨハネ)は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の激動の時代を生きた神学者でした。皇帝教皇主義(ツェザロパピスムス)に反対し、国家に対する教会の独立性と優位性を主張した人です。クリュソストモスは「国家論」という著書の中で「国家、あるいは国籍というものは、人間の罪の結果生じた必要悪である」と語っています。つまり「国籍」は「必要悪」として歴史における暫定的な制度にとどまると言うのです。そしてクリュソストモスは「私たち人間にとって必要不可欠な唯一の国籍、永遠の国籍はただ一つだけである。それはピリピ書において使徒パウロが『我等の国籍は天に在り』と語っている、あの唯一の国籍・天の国籍だけである。ただその『天の国籍』だけが、私たちにとって絶対的な、必要不可欠な、本質的な国籍である」と語っているのです。

 

そこで、私たち自身への問いです。まさに今朝のピリピ書320節が私たち一人びとりに問いかけていることです。「我等の国籍は天に在り」これをあなたはいま、心から信じ告白する人として生きているか?。そのことを使徒パウロははっきりと私たちに尋ねているのです。この場合の「国籍」とはもちろん、この世の国籍、つまり、私たちが地上のどこの国に属している国民であるか、ということとは全く関係のない事柄です。自然的な国籍ではなく、超自然的・超越論的・永遠の国籍こそが、必要不可欠な唯一の国籍であると使徒パウロは語っているのです。その「天の国籍」をいまあなたは所有する者として、教会生活をしているかどうかという問題なのです。

 

 みなさんは死んだ人には国籍は無いのだ、ということをご存知でしょうか?。私の同級生に大住雄一という神学者がいます。昨年まで東京神学大学の学長をしていましたが、現在は病気療養中でありつつ旧約神学を教えている人です。申命記法の研究者として世界の第一人者です。彼は東大法学部在学中に司法試験に合格した人ですから、私はあるとき大住牧師にこの件について確認をしたことがあります。「国籍というのは死んだ人には無いの?」と。そうしますと明確な答えが返ってきました。「そのとおり」。意外に知られていないのではないでしょうか?。私たちは今はどこかの国の国籍を持っていても、死んだら例外なく「無国籍者」になるのです。これが法的な制度としての自然的な国籍の限界なのです。

 

 それなら、私たちキリスト者には、そのような限定的な地上の国籍に遥かにまさる、それこそクリュソストモスが「必要不可欠な唯一の国籍」と呼ぶ「天の国籍」が与えられているのではないでしょうか。その「天の国籍」は、死んだら消滅してしまうような「地上の国籍」とは全く違うのです。いま私たちに与えられている「天の国籍」は唯一の永遠の国籍なのです。そのことを主イエス・キリストはヨハネ福音書141節以下にこのようにお語りになりました。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。

 

 ここで主イエスは「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」と仰います。これは十字架による罪の贖いの恵みをさしています。私たちは本来「天の国籍」を持ちえない存在です。私たちは罪によって神から離れ、神に叛いて生きるよりほかになかった存在です。その私たちの罪を、主イエス・キリストは十字架におかかりになって贖って下さいました。ご自身の生命を献げて私たちの罪の贖いをなして下さったのです。その主イエス・キリストは復活して天に上げられ、父なる神のみもとに座したまいました。それは何のためにであるかといいますと、それこそまさに「あなたがたのために、場所を用意しに行く」ためであると言われているのです。

 

 これは言葉を変えて言いますなら「私はあなたがたのために“天の国籍”を用意するために十字架にかかるのだ」と仰って下さったことです。つまり、私たちが「天の国籍」を持つ者にされた背景には十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みがあるのです。このことを忘れてはならないのです。つまり「天の国籍」は自然的に備わっていた国籍ではないのです。もし自然的にと言うなら、私たちは自然のままでは永遠の「無国籍者」でしかありませんでした。罪によって「神に対して死んでいた」私たちには「無国籍者」の烙印しかありえなかったからです。その私たちの罪を十字架の主イエス・キリストがご自身の生命を献げて贖って下さいました。その十字架の主の贖いの恵みによってのみ、私たちは「天の国籍」を持つ者とされたのです。

 

 私たちはこのように「天の国籍」を持つ御国の民、神の国の国民とされている者たちです。その私たちにいま与えられている恵みを3つ覚えたいと思います。

 

第一に「天の国籍」を持つ私たちには、人生の揺るがぬ目的が与えられているのです。それは私たちの罪を贖って下さった主イエス・キリストを救い主と告白し、主の御身体なる教会に連なって生きる、信仰の生涯を歩む僕とされていることです。私たちはそれこそ宗教改革者カルヴァンが語るように「真の唯一の神を知り、真の礼拝者とせられ、神の栄光を現すこと」が、人生の揺るがぬ真の目的であることを知る者とされているのです。

 

第二に「天の国籍」を持つ私たちには、人生の様々な困難の中にあっても、いつも揺るがぬ平安と慰めが与えられています。私たちの人生に、たとえどのような困難や悲しみが起ころうとも、私たちはいま主イエス・キリストが私たちのために「天に場所を用意」していて下さることを知る者とされています。この慰めを知る私たちは、人生の中でどのような困難に遭遇するときにも、既に主が変わらぬ私たちの救い主であられること、そして主が私たちを御国に迎えて下さることを知り、感謝と慰めと平安をもって生きる「御国の民」とされているのです。

 

第三に、私たちは再び主にお目にかかる望みを与えられています。まさしく今朝の320節にはこのようにありました。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。いま私たちは共に讃美歌305番の3番と4番の歌詞を心に留めたいと思います。B「主よわがいのちも、取らばとりね、われは終わりまで、神にたよらん」。C「ふたたびわが世に、来たもう主を、待ち望む身こそ、げにさちなれ」。そして私たちは地上において別れを余儀なくされた愛する者たちとも、再び主のみもとで再会する恵みを約束されています。それもこれも全て、私たちが十字架の主の贖いの恵みにおいて「天の国籍」を持つ者とされていることによるのです。どうか共に主の御名を崇めつつ、新しい一週間の信仰の旅路を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。